燕京雑考@ブログ版
中国・北京の歴史、風習を紹介。一日一つを目指します。
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「氷取」(燕京歳時記)
冬至から一ヶ月ほどの間は氷が固く、夜間には氷の切り出しが行われる。槌で石をたたいているような音が響く。これを氷取という。冬至から一ヶ月以上が過ぎた氷は堅くても夏の使用には耐えない。
『事物原会』によると、
とある。「凌院」とは氷蔵のことである。周の時代の十二月は現在の十月にあたり、氷を保存する制度はこのころから始まった。
冬至から一ヶ月ほどの間は氷が固く、夜間には氷の切り出しが行われる。槌で石をたたいているような音が響く。これを氷取という。冬至から一ヶ月以上が過ぎた氷は堅くても夏の使用には耐えない。
『事物原会』によると、
周の成王は「凌人(りょうじん)」という氷蔵の役人に命じて、毎年十二月勅令により氷を切り出し「凌院」に収めさせた。
とある。「凌院」とは氷蔵のことである。周の時代の十二月は現在の十月にあたり、氷を保存する制度はこのころから始まった。
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「スケート靴」(燕京歳時記)
スケート靴は鉄で出来ている。一枚の鉄の板を靴に縛り付けたものだ。体を起こせば滑りだし、すぐには止まらない。上手い人はとんぼが飛んでいるように、また燕が飛び交うように滑っている。これは見るに値する。
『日下旧聞考』には、
と書かれている。
スケート靴は鉄で出来ている。一枚の鉄の板を靴に縛り付けたものだ。体を起こせば滑りだし、すぐには止まらない。上手い人はとんぼが飛んでいるように、また燕が飛び交うように滑っている。これは見るに値する。
『日下旧聞考』には、
太液池では冬の月に氷上の遊びが行われる。見事に滑ったものには褒美が与えられる。これらは武芸の観閲と国の伝統を習得するために行われる
と書かれている。
「ソリ」(燕京歳時記)
冬至が過ぎると、池や川などでは水が凍りつく。そうすると十刹海、護城河、二閘などではソリがみかけられるようになる。一人がソリを引いて動かすが、なかなか速い。ソリは長さ1.5m、幅1mほどの木製で鉄の板がついて、三、四人が乗ることが出来る。雪がやみ晴れて暖かい日には、玉の壷の中を滑るような感じで痛快だ。立春がすぎるとソリ遊びが出来なくなる。この時期になるととても危険で、氷の穴に落ちようものならソリの引き手は逃げてしまい助けてくれない。このごろでは諸王や大臣の中で皇帝の仰せを受けた者が、中南海の西苑門内でソリに乗ることを特に許されている。そのソリはとても豪華で、車の幌のような覆いがなされており、風雪を避けることが出来る。
『倚晴閣雑抄』によれば、明の時代、積水潭にはいつも好事家たちが集まり十あまりのソリを連ねて毛氈を敷き、酒器を携え、厚い氷の上で大騒ぎをしながら飲み食いしていたとのことである。豪傑達の快事といえる。
参考:北京民間生活彩図:拉冰床図(ソリ引きの図)
写真の下のほうにチラッと写っているのがソリ。
後日、もっとはっきり写っているものにかえます...
後日、もっとはっきり写っているものにかえます...
冬至が過ぎると、池や川などでは水が凍りつく。そうすると十刹海、護城河、二閘などではソリがみかけられるようになる。一人がソリを引いて動かすが、なかなか速い。ソリは長さ1.5m、幅1mほどの木製で鉄の板がついて、三、四人が乗ることが出来る。雪がやみ晴れて暖かい日には、玉の壷の中を滑るような感じで痛快だ。立春がすぎるとソリ遊びが出来なくなる。この時期になるととても危険で、氷の穴に落ちようものならソリの引き手は逃げてしまい助けてくれない。このごろでは諸王や大臣の中で皇帝の仰せを受けた者が、中南海の西苑門内でソリに乗ることを特に許されている。そのソリはとても豪華で、車の幌のような覆いがなされており、風雪を避けることが出来る。
『倚晴閣雑抄』によれば、明の時代、積水潭にはいつも好事家たちが集まり十あまりのソリを連ねて毛氈を敷き、酒器を携え、厚い氷の上で大騒ぎをしながら飲み食いしていたとのことである。豪傑達の快事といえる。
参考:北京民間生活彩図:拉冰床図(ソリ引きの図)
「九九の消寒図」(燕京歳時記)
消寒図には、九格八十一圏、つまり九つの方形の中にそれぞれ九つの丸が描かれている。冬至から毎日一つの丸を塗っていく。曇りの日には上半分を、晴れの日には下半分、風の日には左半分、雨の日には右半分を塗り、雪の日には真中を染める。
『帝京景物略』には、冬至に人々の家では白い梅の枝を一本描く。梅の花の花弁は全部で八十一枚にする。そして毎日一枚の花弁を染めていく。白い花弁がなくなり、九九・八十一日を過ぎればもう春は深まっている。これを九九の消寒図という。と書かれている。
筆者も幼いころに書いた覚えがあるが、昔からの習慣をしらずしらずに行っていたわけだ。
消寒図には、九格八十一圏、つまり九つの方形の中にそれぞれ九つの丸が描かれている。冬至から毎日一つの丸を塗っていく。曇りの日には上半分を、晴れの日には下半分、風の日には左半分、雨の日には右半分を塗り、雪の日には真中を染める。
(画像は参考用に2009年冬至からのお天気が記入されているものですby:ぽんず)
『帝京景物略』には、冬至に人々の家では白い梅の枝を一本描く。梅の花の花弁は全部で八十一枚にする。そして毎日一枚の花弁を染めていく。白い花弁がなくなり、九九・八十一日を過ぎればもう春は深まっている。これを九九の消寒図という。と書かれている。
(画像はの梅の花にはローマ数字が入っていますが、これは花の数をわかりやすきしたためで、参考用です by:ぽんず)
筆者も幼いころに書いた覚えがあるが、昔からの習慣をしらずしらずに行っていたわけだ。
「冬至」(燕京歳時記)
冬至は天を祭る節句だ。官僚達は皇帝に祝賀の意を表す。
一般には特に祭りは行わず、夏至に麺を食べるように、この日には餛飩(ワンタン)を食べる。
だから都には「冬至にワンタン、夏至に麺」ということわざがある。
『漢書』には
と書かれている。
また『演繁露』には、
と書かれているが(中国語では餛飩と渾沌は同じ発音(フンドゥン))、特に言及する価値があるものでもない。
ワンタンは形が鶏卵に似ていて天地が渾沌としていた時代の形に似ているといわれている。そのことから冬至にワンタンを食べるのだ。もし『演繁露』に書かれていることが正しかったら、何が"餛"でなにが"飩"なのだろか。説明になっていないと思う。
冬至は天を祭る節句だ。官僚達は皇帝に祝賀の意を表す。
一般には特に祭りは行わず、夏至に麺を食べるように、この日には餛飩(ワンタン)を食べる。
だから都には「冬至にワンタン、夏至に麺」ということわざがある。
『漢書』には
冬至には陽気が起き、君主の治道も長ずるということで慶賀する。しかし夏至には陰気が起きるので慶賀を行わない
と書かれている。
また『演繁露』には、
ワンタンは塞外つまり長城の北の渾氏と沌氏が作ったものだ
と書かれているが(中国語では餛飩と渾沌は同じ発音(フンドゥン))、特に言及する価値があるものでもない。
ワンタンは形が鶏卵に似ていて天地が渾沌としていた時代の形に似ているといわれている。そのことから冬至にワンタンを食べるのだ。もし『演繁露』に書かれていることが正しかったら、何が"餛"でなにが"飩"なのだろか。説明になっていないと思う。