燕京雑考@ブログ版
中国・北京の歴史、風習を紹介。一日一つを目指します。
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春睏秋眨夏打盹、睡不醒的冬三月
春眠暁を覚えず... といいますが、春ばかりではありません。一年中眠いのです。
春は眠い、秋はまじろぐ、夏は居眠りをする、眠りから覚めない冬の三月。
「眠い、眠い」と言っている私に、留学時代、中国人のお姉ちゃんが教えてくれました。「つまりはいつでも眠い、という意味。」と彼女は笑っていました。
ちなみに、本来だったら、「春睏秋眨夏打盹、睡不醒的冬三月」の
睏は簡体字では”困”、眨は”乏”、「春困秋乏夏打盹、睡不醒的冬三月」になっていると思います。
ご参考までに...
春眠暁を覚えず... といいますが、春ばかりではありません。一年中眠いのです。
春は眠い、秋はまじろぐ、夏は居眠りをする、眠りから覚めない冬の三月。
「眠い、眠い」と言っている私に、留学時代、中国人のお姉ちゃんが教えてくれました。「つまりはいつでも眠い、という意味。」と彼女は笑っていました。
ちなみに、本来だったら、「春睏秋眨夏打盹、睡不醒的冬三月」の
睏は簡体字では”困”、眨は”乏”、「春困秋乏夏打盹、睡不醒的冬三月」になっていると思います。
ご参考までに...
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龍とは
龍とはどんな動物?なのでしょうか...
龍は古くから中華民族と中国文化の象徴であるといわれてきました。
龍は中国人の祖先が考え出した自然神だと考えられます。
雲が集まり雨が降りという自然現象の中に現れる「稲妻」の形象と、その「稲妻」によって得られた霊感であるともいわれています。
原始時代の人々は自然の現象に興味と恐れを抱き、その中から龍という創造の動物を作り上げ、崇拝してきたようです。
数々の原始時代の氏族の象徴がどのように龍に統一されてきたかについては異論も多いのですが、まだ文字もなかったころに、すでに中国は龍を象徴としていました。
こんな中国で「龍」という言葉ははさまざまな意味に使われています。それをちょっとご紹介します。
1. 純粋に「龍」。古代伝説上、雲を起こし雨を呼び、万物に利をもたらす動物とされてきた。麟虫の長といわれる。古書の中では麟(きりん)、鳳(鳳凰)、亀とあわせて「四霊」と呼ばれる。
2. 皇帝の呼称。 「飛龍は天にあり、大人を造る」という古文から。また「飛龍は天にあり、なお聖人はこれ王位にある。」という文章も見られる。
3. 優秀な人の形容の言葉。「深山の大沢にて、龍が生まれた」『左傳』より 優秀な人材の多く集まっているところを「臥龍蔵虎」と言い表す。
4. 伝説上の東方にある七つの星。核、亢、房、心、尾、箕、統という名の星のこと。これらをあわせて「蒼龍七星」という。
5. 駿馬の別称。『周礼』によれば馬のなかで8尺以上の物を龍という。ちなみに堂所によれば6尺以上のものがはじめて馬と呼ばれるのだそうだ。
6. 自然現象や地勢を表す言葉。山脈を龍にたとえたり、山あり河ありの風景を「龍脈」の地という。
7. 白や黒などいろいろな色の混じった色のこと。『周礼』に「全は純色である。龍は雑色である」という記述がある。
このように龍は中国とは切って切り離せない、空想上の動物なんですね。
龍とはどんな動物?なのでしょうか...
龍は古くから中華民族と中国文化の象徴であるといわれてきました。
龍は中国人の祖先が考え出した自然神だと考えられます。
雲が集まり雨が降りという自然現象の中に現れる「稲妻」の形象と、その「稲妻」によって得られた霊感であるともいわれています。
原始時代の人々は自然の現象に興味と恐れを抱き、その中から龍という創造の動物を作り上げ、崇拝してきたようです。
数々の原始時代の氏族の象徴がどのように龍に統一されてきたかについては異論も多いのですが、まだ文字もなかったころに、すでに中国は龍を象徴としていました。
こんな中国で「龍」という言葉ははさまざまな意味に使われています。それをちょっとご紹介します。
1. 純粋に「龍」。古代伝説上、雲を起こし雨を呼び、万物に利をもたらす動物とされてきた。麟虫の長といわれる。古書の中では麟(きりん)、鳳(鳳凰)、亀とあわせて「四霊」と呼ばれる。
2. 皇帝の呼称。 「飛龍は天にあり、大人を造る」という古文から。また「飛龍は天にあり、なお聖人はこれ王位にある。」という文章も見られる。
3. 優秀な人の形容の言葉。「深山の大沢にて、龍が生まれた」『左傳』より 優秀な人材の多く集まっているところを「臥龍蔵虎」と言い表す。
4. 伝説上の東方にある七つの星。核、亢、房、心、尾、箕、統という名の星のこと。これらをあわせて「蒼龍七星」という。
5. 駿馬の別称。『周礼』によれば馬のなかで8尺以上の物を龍という。ちなみに堂所によれば6尺以上のものがはじめて馬と呼ばれるのだそうだ。
6. 自然現象や地勢を表す言葉。山脈を龍にたとえたり、山あり河ありの風景を「龍脈」の地という。
7. 白や黒などいろいろな色の混じった色のこと。『周礼』に「全は純色である。龍は雑色である」という記述がある。
このように龍は中国とは切って切り離せない、空想上の動物なんですね。
宮殿の軒先に並ぶ神獣
城門や宮殿の軒先に、いろいろな動物がついているのに皆さんも気がついているでしょう。はたしてそれが何なのかなかなか見えないところだけに、判別するのは不可能ですが、ちょっとご紹介致しましょう。
仙人 仙人の乗り物の鶴にのった仙人。吉祥の印。
龍 龍は動物の最高位にあるとされ、皇帝のシンボル。
鳳 聖人の世に出現する吉祥のオス鳥。ちなみにメスは凰という。(あわせて鳳凰)
獅子 山を鎮める王
海馬 海獣の一種。皇帝の支配力が天に及ぶことを示す動物。
天馬 ペガサスのような羽根のある馬。皇帝の支配力が海に及ぶことを示す動物。
サン猊 雲を呼び雨を降らせる海獣で、火災を消すことができる。
押魚 トラや豹を食べる怪獣。
カイチ 牛に似ているが、角が一本の想像上の動物。争い、議論のときに悪いほうを角でつくといわれている。
斗牛 鱗をまとい、牛の形をした消火、除厄の力を持った動物。
行什 サルに似ている。悪魔退治をする。尾で怪獣を捕らえるので最後尾、十番目いるのでこの名前がついた。
この神獣たちの下に顔を出しているのは
龍の六男のの「覇下(バシャ)」
後ろに控えて、軒を支えているのは
龍の次男は「 螭吻(チウェン)」です。
(詳しくは、「龍の9匹の息子達(龍生九子)」をご参照ください
場所によっては、近くに見ることができます。
そういうスポットを見つけて、よく観察してみてください。
城門や宮殿の軒先に、いろいろな動物がついているのに皆さんも気がついているでしょう。はたしてそれが何なのかなかなか見えないところだけに、判別するのは不可能ですが、ちょっとご紹介致しましょう。
仙人 仙人の乗り物の鶴にのった仙人。吉祥の印。
龍 龍は動物の最高位にあるとされ、皇帝のシンボル。
鳳 聖人の世に出現する吉祥のオス鳥。ちなみにメスは凰という。(あわせて鳳凰)
獅子 山を鎮める王
海馬 海獣の一種。皇帝の支配力が天に及ぶことを示す動物。
天馬 ペガサスのような羽根のある馬。皇帝の支配力が海に及ぶことを示す動物。
サン猊 雲を呼び雨を降らせる海獣で、火災を消すことができる。
押魚 トラや豹を食べる怪獣。
カイチ 牛に似ているが、角が一本の想像上の動物。争い、議論のときに悪いほうを角でつくといわれている。
斗牛 鱗をまとい、牛の形をした消火、除厄の力を持った動物。
行什 サルに似ている。悪魔退治をする。尾で怪獣を捕らえるので最後尾、十番目いるのでこの名前がついた。
この神獣たちの下に顔を出しているのは
龍の六男のの「覇下(バシャ)」
後ろに控えて、軒を支えているのは
龍の次男は「 螭吻(チウェン)」です。
(詳しくは、「龍の9匹の息子達(龍生九子)」をご参照ください
場所によっては、近くに見ることができます。
そういうスポットを見つけて、よく観察してみてください。
参考図書:アジア遊学No40
特集北京-変わりゆく古都 から
松木民雄氏の天安門広場の変遷
勉誠出版
画像:故宮博物院の2012年1月カレンダー壁紙
特集北京-変わりゆく古都 から
松木民雄氏の天安門広場の変遷
勉誠出版
画像:故宮博物院の2012年1月カレンダー壁紙
天の原ふりさけ見れば春日なる
三笠の山に出でし月かも
日本人なら百人一首でもおなじみのこの歌はご存知でしょう。これは遣唐使として唐に渡り、玄宗、肅宗、代宗の三人の皇帝に仕えた安倍仲麻呂が詠んだうたです。
ところでこの歌に詠まれている月、いつの季節の、どんな月かご存知ですか?
実は私、長い間、中秋の名月を詠んだものと思っていました。(^^ゞ
それが、中秋の名月について調べていたときに、実はこの月は満月ではあったけれど、季節が違う!ということが判明したのです。
この歌は、仲麻呂が、玄宗のお許しが出て、日本へ帰る船に乗る前に詠んだと伝えられています。それは天寶十二年十一月十六日だったといいます。もともと十五日に明州(浙江省寧波の南)から出向予定だったらしいのですが、1羽の雉が第1船の前を飛んだことを理由に(縁起のよくないことだったのでしょうか)十六日に延期になったとか。そして出向に際し、仲麻呂が詠んだ歌がこの歌だったのです。
ということは、この歌は仲秋(八月)ではなく仲冬(十一月)に詠まれた歌だったんですね。天寶十二年十一月十六日を調べてみると(便利なことに、こういうことが調べられるサイトがあるんですよねぇ)西暦では753年12月15日でした。ということは当時前の初冬の寒い時期の満月だったんですね。詳しく言うと十六日ということは「いざよい」つまり満月次の日だったわけですが、詳しくこの日の月の形を考察した人のホームページによりますと、15.3日でこの月が形としては満月だったとのことです。暦と実際の月の形は微妙にずれていますから。というわけで、仲麻呂が歌に詠んだ月は仲冬の満月でだったということです。
三笠の山に出でし月かも
日本人なら百人一首でもおなじみのこの歌はご存知でしょう。これは遣唐使として唐に渡り、玄宗、肅宗、代宗の三人の皇帝に仕えた安倍仲麻呂が詠んだうたです。
ところでこの歌に詠まれている月、いつの季節の、どんな月かご存知ですか?
実は私、長い間、中秋の名月を詠んだものと思っていました。(^^ゞ
それが、中秋の名月について調べていたときに、実はこの月は満月ではあったけれど、季節が違う!ということが判明したのです。
この歌は、仲麻呂が、玄宗のお許しが出て、日本へ帰る船に乗る前に詠んだと伝えられています。それは天寶十二年十一月十六日だったといいます。もともと十五日に明州(浙江省寧波の南)から出向予定だったらしいのですが、1羽の雉が第1船の前を飛んだことを理由に(縁起のよくないことだったのでしょうか)十六日に延期になったとか。そして出向に際し、仲麻呂が詠んだ歌がこの歌だったのです。
ということは、この歌は仲秋(八月)ではなく仲冬(十一月)に詠まれた歌だったんですね。天寶十二年十一月十六日を調べてみると(便利なことに、こういうことが調べられるサイトがあるんですよねぇ)西暦では753年12月15日でした。ということは当時前の初冬の寒い時期の満月だったんですね。詳しく言うと十六日ということは「いざよい」つまり満月次の日だったわけですが、詳しくこの日の月の形を考察した人のホームページによりますと、15.3日でこの月が形としては満月だったとのことです。暦と実際の月の形は微妙にずれていますから。というわけで、仲麻呂が歌に詠んだ月は仲冬の満月でだったということです。
天安門の前は現在長安街というメインストリートになっていますが、ちょうどこの通りにかつては長安右門と長安左門という門があり、外部から天安門には直接入って来れないようになっていました。
この二つの門のうち、長安左門は「龍門」と呼ばれていました。そうです。登竜門の「龍門」です。
中国では「科挙(かきょ)」というとても厳しい官吏登用試験が行われていました。郷試、会試、殿試というのが主な科挙の試験です。郷試に合格したものが、会試を受け、会試に合格したものが殿試を受けます。そして最終段階の殿試の最終試験には皇帝自らの面接テストが行われるのです。この殿試の最高位の合格者三名は一位から「状元(じょうげん)」、「榜眼(ぼうがん)」、「探花(たんか)」といわれます。
さて、殿試のあと二日後に合格者の発表があります。紫禁城にて合格者の名前が呼ばれるのですが、呼ばれた後、管理によって長安左門に名前の書いてある立て札が運ばれ立てられるのです。合格発表の前、それらの受験生たちはなんの功績もない普通の人ですが、名前が書かれた立て札がその門をくぐったときに、その人たちは官吏としての第一歩を踏み出すことから、鯉が「龍門」をくぐって龍になったの故事にたとえられ、「龍門」と呼ばれるようになったのです。
もう一方の長安右門は「虎門」と呼ばれていました。と言うのは、死刑囚が最後の死刑宣告を受け、刑場に向かう門だったからです。
死刑の最終宣告は秋と冬に行われました。冬の場合には霜降まえに死刑囚は天安門前の西千歩廊で最終的な刑の宣告を受け、冬至の日に長安右門から、宣武門を経て、刑場(菜市口)に向かいました。運良く、最終宣告を受けないものもあったようです。それらの死刑囚たちは、一年命を永らえたと、家族が首に赤いサンザシの実をかけて祝ったといいます。しかし、最終宣告を受けたものたちは、「虎の口に入って行くがごとく」であったことから、この門は、「虎門」と呼ばれたのでした。
かたや「龍門」、かたや「虎門」……。この二つの門は、現在はないものの、かつては向かい合って存在していたのでした。
ちょっと蛇足になりますが、この同じ時代に「東は生をつかさどり、西では死をつかさどる(東邊掌生、西邊掌死)」という言葉があったといいます。現在の天安門広場の西側にはかつて軍や裁判やそれに関したお役所が並んでいました。それでこのあたりは「生死街」と呼ばれていました。反対に東側は、お金や、皇族、貴族がかかわるまつりごとについてのお役所などがありました。そのことから「富貴街」と呼ばれていたそうです。
現在は、天安門が残るだけで、お役所もそして、長安右門、長安東門も残っていませんが、世界に誇る広い広場には、このような歴史が残っていました。
注)地図をクリックすると、拡大した地図を見ることができます。
この二つの門のうち、長安左門は「龍門」と呼ばれていました。そうです。登竜門の「龍門」です。
中国では「科挙(かきょ)」というとても厳しい官吏登用試験が行われていました。郷試、会試、殿試というのが主な科挙の試験です。郷試に合格したものが、会試を受け、会試に合格したものが殿試を受けます。そして最終段階の殿試の最終試験には皇帝自らの面接テストが行われるのです。この殿試の最高位の合格者三名は一位から「状元(じょうげん)」、「榜眼(ぼうがん)」、「探花(たんか)」といわれます。
さて、殿試のあと二日後に合格者の発表があります。紫禁城にて合格者の名前が呼ばれるのですが、呼ばれた後、管理によって長安左門に名前の書いてある立て札が運ばれ立てられるのです。合格発表の前、それらの受験生たちはなんの功績もない普通の人ですが、名前が書かれた立て札がその門をくぐったときに、その人たちは官吏としての第一歩を踏み出すことから、鯉が「龍門」をくぐって龍になったの故事にたとえられ、「龍門」と呼ばれるようになったのです。
もう一方の長安右門は「虎門」と呼ばれていました。と言うのは、死刑囚が最後の死刑宣告を受け、刑場に向かう門だったからです。
死刑の最終宣告は秋と冬に行われました。冬の場合には霜降まえに死刑囚は天安門前の西千歩廊で最終的な刑の宣告を受け、冬至の日に長安右門から、宣武門を経て、刑場(菜市口)に向かいました。運良く、最終宣告を受けないものもあったようです。それらの死刑囚たちは、一年命を永らえたと、家族が首に赤いサンザシの実をかけて祝ったといいます。しかし、最終宣告を受けたものたちは、「虎の口に入って行くがごとく」であったことから、この門は、「虎門」と呼ばれたのでした。
かたや「龍門」、かたや「虎門」……。この二つの門は、現在はないものの、かつては向かい合って存在していたのでした。
ちょっと蛇足になりますが、この同じ時代に「東は生をつかさどり、西では死をつかさどる(東邊掌生、西邊掌死)」という言葉があったといいます。現在の天安門広場の西側にはかつて軍や裁判やそれに関したお役所が並んでいました。それでこのあたりは「生死街」と呼ばれていました。反対に東側は、お金や、皇族、貴族がかかわるまつりごとについてのお役所などがありました。そのことから「富貴街」と呼ばれていたそうです。
現在は、天安門が残るだけで、お役所もそして、長安右門、長安東門も残っていませんが、世界に誇る広い広場には、このような歴史が残っていました。
注)地図をクリックすると、拡大した地図を見ることができます。
参考図書:
『天安門広場歴史档案』
中共中央党校出版社
『天安門広場歴史档案』
中共中央党校出版社