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燕京雑考@ブログ版
中国・北京の歴史、風習を紹介。一日一つを目指します。
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西湖より包頭まで 7  北京滞在 -03 通恵河、(観象台、雍和宮、文廟等)前編


 

9月13日、午前8時起床。顏を洗い居れば田中多田二君帰宿。
毛も延びたとて散髮をする。
武川に行く途で多くの出稼人の帰るに逢うた。
中秋節を期として奥地から引上げるのだそうな。武川の盆地も既に漢人の居住する所で蒙古人の片影をも見なかつたと失望しての話である。
そこへ農商部の章鴻釗氏の来訪をうく、前日の歓待を謝す。
午前11時になった。今日は二閘<アルチャー>に行かうと西田君を誘うて出かける。
それは元代大運河の起点であるから水路も見また閘というものを実見したいからであった。

『元史』を見ると「通恵河其源出於白浮甕山諸泉水、世祖至元二十八年,都水監郭守敬、奉詔興擧水利因建言疏鑿通州至大都河、(中略)玉泉諸水至西水門入都城、南滙爲積水潭(北海其他)、東南出文明門東至通州高麗莊入白河、總長一百六十四里一百四步、云々」 とある。
『畿輔通志』によるとこの甕山は萬壽山で玉泉から出る水が萬壽山下で昆明湖となる。
その水をひいて北京の西門に来って一部は城壁の外の濠にする。
一部分は城内に引き入れて、北海中南海をはじめ皇居の濠および金水河となるが、
それが御河となって文明門、すなわち今の正陽門外に出て、東して護城河と合し
それから通州までを運河にしたといふのである。
しかしこの運河は元以前にあったもので、隋代「永済渠を北涿に通じた」とあるのがすでににその最初最らしい。
故に郭守敬がこの運河を作って所々に閘門をつくつた時、その閘の位置から旧牌の磚木を得て時の人を感心さしたとある。
至元二十九年に出来上つたが、それ以前は糧食は通州から陸運であったので、人民大にこの運河を徳とした。

『畿輔通志』に「崇文門外の三里河は元時の文明河、糧儲の運道で銕閘今猶存する」とあるが、
この三里河は正陽門の東南天壇附近の池へ流れる川のことで、昔はここへ運河がきたのである。
して見るとこの元の通恵河が、今のこの二閘のと同じ川であつたとはちょっとうけとれない。
思うにこれは元代以後、数数百年度々改修したからで、
元代には閘が七ヶ所もあり江淮の舟直ちに都城まで達したとあるのに、
今は通州までに閘が五つで、しかも閘を舟が通り得ない。
全く変わっている。
けだし元の都を継承した明の初めに、一時この元の運河は淤塞していたから、
永楽に再びこれをつくり、その後、成化・正徳の間、度々改修し、
最後に嘉靖六年に今日の通恵河が出来たとあるから、
昔のままに今もあると考えてはならぬのである。


燕京雑考> 燕京歳時記 七月 「灯篭流し」...より
 

~>゜)~<蛇足>~~
 二閘の昔の写真は
 ブログ「枫影斜渡_vwb的博客
 「一张京杭大运河大通河上庆丰闸(二闸)的老照片」より

~>゜)~<蛇足2>~~
 「二閘」の「閘」は水門のことで、
 「二閘」は北京から数えて第二水門という意味です。
 北京郊外の夏の行楽地で、
 清の時代は、中元には精霊流しでにぎわったそうです。
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西湖より包頭まで 7  北京滞在 -02 京師図書館

 

9月12日、前日来の疲労にて昨夜はよく寢れた。
今日は松浦君が図書館に案内してくれる日である。
まず正金銀行に行って両替をする。相場100円につき73元である。
戦雲動いて銀価騰貴の勢にあるのだ。
人力車にのつて北京市街の北部方家胡同にゆく。
この附近は満州人の住宅地で家宅の形式古びたれども
一種の特色があって南の方とは樣子がちがう。
半ば朽たる牌楼の豪奢語る状のなかなかに憐である。

図書館に入ると陳君が出られて極めて懇切に案内してくれられる。
『四庫金書』はもと文淵、文溯、文源、文滙、文宗、文瀾、文津の七閣にあつたのであるが、
この中杭川の文瀾閣は過半焼失したので今この図書館で100人程の写字生が筆写補修中であり、
楊州大観堂の文滙、鎭江金山寺の文宗の二つはいずれも江楊の亂に失われ、
圓明園内にあった文源閣は仏軍に焼かれて、
のこる所避暑山莊のの文津と清室にある文淵と奉天の文溯の三つであるが、
図書館のはその文津閣本で、各巻に「避暑山莊」、「文津閣寶」、「太上皇帝之寶」と大きな三の方印が押してある。
けだし天下の至宝、もと古物陳列所あつたのを民国四年10月から本館に預かっている。
四庫6144函36275冊、
四部各一色に分ち緑は経、紅は史、藍は子、灰は集部で
本の大さは各部同大、紙質尤も美はしい、
毎半ページ8行21字、極めて美はしく書いてある。
経部20架、史部33架、子部22架、集部28架、共計103架、
凾も丈夫であれば棚も強い、
一室内に整然として排置されてある有様、まことに厳肅な感に打たれる。
我等の如く平素史部でも二十四史の石印本をさえ容易に手に入れかねるものは、
ただ茫然としてこの架凾を見るに止まる。

やがて本館珍蔵本室に入って宋版の資治通鑑寰宇通志の類を見せて貰う。
輿図の類は無いかと聞くと、博物館に移したとの答である。
やがてここを辞し荷塘湖畔の会賢堂に至って中食をとる。
立派な料理屋で松浦君が奢ってくれた。
それから午門内の博物館に行く、係官がいないので人れない。
遺憾ながら帰る。
午後四時琉璃廠に行く。
新式の市街で外城内第一の繁華な所である。
多くの書店の中で来薰閣書荘というちっぽけな本屋が、
我等に掛値をいわないので安心して2、3購求してかえる。

本日京大文学部出身の加地哲定氏の来訪をうける。
氏は高野山からの留学生であるが、
この頃支那に密敎研究の居士が多いので、
加地君の敎をうくるものが大官の中にもあるとの事で、
よほど余裕のある生活をしていられるらしい。
いろいろ歓談。
明日は中秋節で、つぎは日曜にあたる。
博物館はそのさきでないと行いないが、僕からも係の人に頼んでやろうといわれる。


~>゜)~<蛇足>~~
 京師図書館は、今でいうところの北京図書館です。

~>゜)~<蛇足2>~~
 1924年の中秋の節句は9月13日でした。

~>゜)~<蛇足3>~~
 文中の京師図書館の写真は、百度百科の京师图书馆から

西湖より包頭まで 7  北京滞在 -01 中央公園

まず国際観光局に立ち寄って直隷山東視察の意向をのべて、汽車利用の方法を相談する。
日程をこさえてやろうといわれる。
辞して崇文飯店に入って中食をとる。
やがて崇文門上に登って城壁のから北京の大観をする。
森の都、瓦の都、なつかしい眺望である。

帰宿して順天時報社に行って松浦君を訪ねる。
元気で仕事をやっている。英国の西藏に於ける活動を研究しているとの事。
相共に車で中央公園に走る。
入園料十毛をとつて一般の苦力を制限して入れない。
從ってこの公園は京師縉紳の出入に限られ、老柏のしげった幽邃の趣が保有されている。

熱閙の市街の中にしてこの勝地があるのがうれしい。
木蔭の籐椅子に腰をかけ悠々茶を喫し、西瓜豆をかじる紳士の多いのを見る。

支那では公園というものは極めて静的なもので決して動的でない。
中央公園特にしかりで、午後5時以後は多くの北京の令嬢達がここにやってきて凉を納れるので、賑かでもあり美はしくもある。
社稷壇から通俗図書館を一巡し、懐来飯店の中庭に来てサイダーをとる。
子女の怜悧で、肌のきめの細いことなど談じていると、
白毫赤帽赤衣の軍楽隊が、列をなして奏楽してくる。
これはと見ると燦爛たる花馬車がこの店先につく。
花嫁が乗っているのだ。
見れば懐来楼上縉紳の集るすでに多い。二十歳前後の淑女も多くきている。
けだし花嫁の披露をやるのだ。
薄いベールをかけて盛装した美人が、馬車から出て楼に入ると、
あらゆる人間の視線は、王を迎うるか如くに輝いてくる。
遠来の孤客には大なる眼福とでもいうべきであろう。
松浦君は「およそかくのごときは近世支那新人の洋化せらる風習で、前代未聞のことだ」という。
よく見ると洋装の夫婦連れで、子供をつれて来ている若人が多い。
これも民国近来の現象であるとの事だ。
忠厚伝家を理想とした昔のつつましやかな時代は過ぎ去ったのかもしれぬ。


~>゜)~<蛇足>~~
 中央公園は、今の中山公園、
 かつての社稷壇(土地の神(社)と五穀の神(稷)を祀る場所)です。

~>゜)~<蛇足2>~~
 文中の古柏の写真は、百度百科の中山公園から

西湖より包頭まで 6  包頭行 -05 墩台の連互

 八達嶺から元来た道を下るのは早い、馬よりも歩く方が楽だ。
30分で青龍橋駅に達する。

 汽車にここでV字に往っ戻って八達嶺隧道道の方へ登るのである。
駅の一方に詹天祐の銅像と大總統の頌給の碑がある。
侯車室で卵子やサイダーを取る。
やがて午後2時16分発の汽車にて北に向う。
隧道は長35080尺もっとも長い。
出た所が嶺外の岔道城の要塞である。
見上ぐればこの山にもあの山にも、古代城壁のルーインらしいものがある。
まだ城壁らしい形をしたものの中に民人の居住せるものが居り
あるいは磚瓦、あるいは土壘のようなものが幾筋となく目につく。
いずれが古いかわからない。
   
 康莊までくると一望の沖積平野である。
窓から南西の山巓を見ると、長蛇のごとき城壁が二筋走つている。
平野は永定河の支流で予想外に広漠たるものだ。
見渡すかぎり高粱のよくできた畑地である。
やがて水の清んだ大きい河を通る。
中々大きいが、でも支流の支流である。
懷来はこの支流々域の中心である。
南方永定本流の方を見ると緑樹蒼々として鶏犬の声互に聞ゆといふ風である。
站頭に林檎を売る漢人の声はなはだ喧しい。
粗末な葛籠に林檎を入れて積出している。
仲仕の数も2、30人は見うけられて中々盛んである。
さてここからさきにゆくと沖積層はいつか黄土層にかわって、
所々に小さい砂川があり、黄土を浸蝕して断崖を作くれるが多い。
黄土の表面は粟、高粱、唐辛など豊作である。
土木駅につく、站南4里にしてかの有名な土木城がある。
正統十四年にエセン入冦、英宗親征して大同に至り、師を班し、
ここでエセンに追擊され、大敗遂に捕虜の憂目あったところだが、
今日ではこの平野はすべて漢人の部落で、たしかに稲田だと思はれるものまである。
豆といい粟といい農業おおいに開けている。
30支里を西して新保安にくると一面の水田に稲が黄熟している。

 ふと平地の上を高10メートル内外方5間がほどの土の塔がある。
これはと気を付けると長城以北の山や野のぽつりぽつりとある。
新保安以後はその数いよいよ多く、1支里ごとに作くられ、
山の尾にあれば麓にもあり、小高い岡にあれば低い畑にもある、
これが烽火台たと気がつく、数の多いのに驚く、
ところがこれかどこまでつづくかというと、ほとんどこの汽車道の行くさきざきにあって、
張家口から大同、豐鎭をへて紅砂壩駅までおよそ400キロメートルの沿線に連亘しているのだ。
長城には36丈毎に方形の墩台があるが、この烽台もまた同じ日的で、敵人の来冦を報じかつ防御するところのものである。
 
 さきにのべた漢代に、
「匈奴が句注に入るや烽火甘泉に通じ、数ならずして漢兵至る」とあるのも、
かかる通報機関のあった事を語るもので、
『唐六典』には「舊關内河東河北皆置烽」とあり、「烽と烽と相去る三十里」とあり。杜甫の詩にも「候火雲峯峻、懸軍幕井乾」というがある。
楊烱は「烽火照西京、心中自不平」と歌っている。
しかし今目前にある烽台はさほど古いものでなくて、
多くは明の成化・嘉靖時代のものであるらしい。

 余子俊の議によれば「毎一里築立墩台一座、毎座四面根脚各闊三丈高三丈」とあって
上方に6尺の部屋があり、下に1丈からの深い濠をめぐらしてあった。
工人500、土近ければ10日にして1座を作り得るから、
1万人が1ヶ月かかると60座はできる。
「1座10人ずつの守備兵を置き、兵糧は常に1ヶ月の水と米とを貯えろ」とある。
で今見るやうな数の多い墩台ができたのである。
古へは日中には烟を出し、夜中は火を点じてその火の数で賊の多少を報じたのである。
しかし明代には烽火の外に長竿を立て、これに紅燈を吊るしたらしい。
その紅燈の製法まで『山西通志』にのっている。
普通長城の巨工なるを唱うるが城外更にこの墩台の連互を考うるとき、
漢人のいかに苦心したかがわかる。
おだやかに張子容の詩を吟じて、当時の労苦をねぎらわとするもの、あに予一人のみならんや。
平沙落日大荒西 隴上明星高復低 孤山幾處石烽火 戰士連候皷聲
と。


~>゜)~<蛇足>~~
 わかりやすくするため、原文の以下を変えました。
  也先: エセン

西湖より包頭まで 6  包頭行 -04 万里長城 前編




 普通内門を通って外門に進み、外門の横から、高3丈の長城に登り、
それより城壁の上の広さ15尺ないし20尺もある磚瓦の甬道を尾道伝いに西方の台に上る。
墩台は36丈毎に一つあって方形である、
第一の墩台には古銭やら数珠などを売っている乞食風のものがおったが、
第二の墩台の上には今朝北京を発して汽車でやってきた多くの外人、華人などが、盛んに食事を取っている。日本の大学生も見受けた。
いかさま見晴らしがよい。
南は山岳重疊の居庸関一帯をへて望京の情が起り、
北は山西北部の台地を越えて胡軍を呼ばう概がある。
形勢まさに天険である。
脚下を見ると石と磚とを漆喰で固めてある。
黄土と石灰と墨との三つを混じた三合土なるものを用いたというが
非常に堅牢にできて峰から峯へ延亘している偉観に、万里長城の名のふさわしきを思う。
ところどころに甬道から下りられる暗道がつけてある。
雉堞石のところどころ破れたるが惜しい気がする。

 何にしてもかかる雄大なものが西は臨洮から東遼東に至る万余里に延亘したと思うと感慨無慮で、遠古の時代を回顧して默々たる思に沈むのも人情であろう。
しかし我等が今佇立して朔北の荒野に対しているこの城壁は決して一朝一夕にできたものでない。
上下三千年の間、漢民族の対外闘争の結果として、幾多英雄の心血を灑がしめたもの。
秦始皇がつくつたと簡単簡単な記述でかたづけてはすまないものである。
 そもそも支那に長域のあるは必しも北に限らない。
今でも村落、県鎮すべて土垣または城壁をめぐらすように、洛陽あたりでは単に自己の田畑にさへ壘を繞らしている。
かような境界の観念は、紀元前4世紀戦国の世において著るしく列強の間に起り、
山東には斉斉魯の長城が泰山の左右に連り、河南に韓の長城ができ、
その南に楚の長城があるという風に、中原の間にあったが、
そのもっとも盛んに築かれたのは、何といつても北方の夷狄騎射に堪能なものを防がねばならぬ方面であつた。
すなわち直隷山西陜西の各省に国する所の燕、趙、魏、秦の四国はよほど早くからその工を起した。

 それは西紀81年にローマ帝ドミティアヌスが、ライン、ダニューブ両岸河の間に長城<リメス>を築いて、北狄を限ったよりも、およそ500年も前の事で、
最初に、魏恵の恵王長城を固陽に築き、
ついで西暦前314年秦は義渠の戎を破って北地長城をつくり、
趙の武靈王は前307年林胡楼煩を破って代より陰山にかけて長城をつくり、
燕もまた東胡を破って造陽より襄平に至る長城を築いた。
いずれも夷狄を退けて漢民族の植民地を作くり、その当然の結果としての境界を守るためのものであるから、長城は前進的であり移動的であつた。
ゆえに秦が天下を一統するや、これら四国の跡をうけつぎ紀元前215年蒙恬をして北の方胡を討ちことごとく河南の地をとって直道を通じ、九原より雲陽に至る間、いわゆる東洋のローマンロードをつけ、長城は西臨洮より。東遼東まで万余里に達せしめた。

 『匈奴伝伝』によるとこの時は「河によつて塞をつくったが、やがてまた河を渡り陽山北假中による」とあつて、
黄河の北の今の陰山々脈を越えて長城を広げたのであるから、実に前進的積極的である。
したがって漢民の力全く胡族を圧倒したので今日見るような堅固な城壁でなく、あるいは土壘、または石壘で比較的簡単な性質のものであったと見られるが、
その後漢民が到底北方の強勇に敵し得られぬやうになって、はじめて長城が消極的な防御機関となるに至り、山岳の険要によるところの蜿蜒としてつづく長城というものに進化した。
それは漢高祖が大同附近で匈奴の冒頓単干に囲まれた頃からの傾向である。
当時雁門の嶮によってこれを防御するにいたったのを、『史記匈奴伝』に
於是漢使三将軍軍屯北地、代屯句注、趙屯飛狐口、緣辺亦各堅守以備胡寇。又置三将軍、軍長安西細柳、渭北棘門、霸上以備胡。胡騎入代句注辺、烽火通於甘泉、長安。
と記している。
この句注というは今の雁門関で飛狐口は恒山の北、いずれも内辺長城の要塞であるが、
屯兵が常にここを堅守し、胡人来るや烽火をもって長安に通知するという風の組織を完成したのである。
その後衛青のごとき武将が出ると、再び塞外に武威を揮うたけれども
爾来この受け身の防御壁としての性質が定まって、
五胡十六国の時代に胡人が北支那に侵入して王都を置く頃になっても、
やはりこの長城を重要なものとして、さらに後方に備える事になった。



~>゜)~<蛇足>~~

 わかりやすくするため、原文の以下を変えました。
  羅馬帝ドミチヤヌス: ローマ帝ドミティアヌス


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