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燕京雑考@ブログ版
中国・北京の歴史、風習を紹介。一日一つを目指します。
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「十刹海」(燕京歳時記)

十刹海(じゅうせつかい シーシャーハイ) は別称「河沿(かえん)」という。地安門外の西側に広がっている。蓮の花で有名で、毎年六月には男も女も、特に前海の北岸に集まる。ほかの場所にも蓮の花はあるのだが、ほかの場所にはなぜか人は集まらない。徳勝橋の東は積水潭(せきすいたん)といいまたの名を浄業湖という。南に高廟があり、北に匯通祠(わいつうし)があるのがここだ。かつて徳勝橋の東には成親王の館があり、それは現在醇親王の館になっている。この館のまえにあるのがいわゆる後海で、すなわち十刹海だ。三座橋の東で響閘の左、つまり蓮花泡子のあたりを本来は前海というが、今ではこのあたりをすべて十刹海といっている。蓮の花が咲き乱れるころ、北岸一帯は風光明媚で、緑の柳が垂れる様子は糸のようで、紅やその他の色の鮮やかな女性の衣装、そして花の美しさと女性の面差しが互いに映った風景はまばゆいばかりである。まさに人が人であるか、花が花であるのか区別が出来ないと言ったところ。

『日下旧聞考』には、
積水潭つまり浄業湖は昔の名前を「海子(みずうみ)」といった
とある。

あたりには庭園が多く、蓮花社、蝦菜亭、鏡園、漫園、楊園、定園などがあったが、現在は一般の住居となっている。明代の西涯こと李東陽のかつての屋敷は、今の恭親王の館の南東隅にあったと思われるが、前海北岸にあったといわれるので十刹海のほとりにあったのではないようだ。鼓楼と響閘はこの左右に位置している。


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訳注:
十刹海:什刹海のこと。

北京風俗図譜より「十刹海の蓮見」

文人の描いた旧都・北京:”什刹海”」もご参考にどうぞ。


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「葛布の薄衣への衣替え」(燕京歳時記)


毎年六月、初伏の日から処暑の日まで、官僚達はみな夏用の笠型の帽子(万絲帽)と黄色い葛布の薄衣の上着を着用する。


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訳注:

初伏:夏至のあとの3回目の「庚(かのえ)」の日。4回目の「庚」の日を「中伏」、6回目の「庚」を「末伏」といいこの時期を三伏という。この時期が一年間で一番暑い時期といわれている。 詳しくは「三伏」を参照。

夏用の笠型の帽子(万絲帽):涼帽ともいう。

画像はこちらから
「中頂」(燕京歳時記)


中頂の碧霞元君廟は右安門5kmほどの草橋にある。毎年六月一日に縁日の市がたつ。市には花卉樹木がおおく、錦を並べたような風情である。外城の住民が男も女も多く出かける。

『宸垣識略』には
草橋は右安門外5kmにあり、水の多くの流れが集まるところである。水田を耕す人々はそれによって利益を得ている。土地は泉水に近く花を栽培するのに適している。そのためこのあたりの住民は花を栽培して生計を立てている。蓮花池があり、この蓮の香りは遠くまで漂う。ボタンや芍薬も到るところで栽培されている。橋から芍薬で有名な豊台までは5kmほどだ。元や明の時代には貴族の庭園が多くあった。元右丞相・廉希憲の万柳堂や断事府参謀・趙禹卿の匏瓜亭は端の左右にあったと言うが現在では、その場所は定かではない。

とある。

呉厳の詩の注釈によると四月一日に縁日があったらしいが、現在は六月になっている。

「氷のご下賜」(燕京歳時記)

都では初伏から立秋までのあいだ、官公庁で氷のご下賜がある。この時期工部よりチケットが配られ、それをもって氷の引き換えに自ら出向く。そのご下賜の氷の多寡は位により異なる。

『帝京景物略』には
明の時代には立夏の日に氷倉が開かれ、文武の大臣に氷のご下賜があった。庶民の氷売りは銅の杯を二枚あわせて鳴らしながら、声高らかに売り歩く。この銅の杯を氷杯という。

とある。

この氷売りの風景は現在も見る事が出来るが、耳に涼しく、平和な響きがある。


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訳注:

初伏:夏至のあとの3回目の「庚(かのえ)」の日。4回目の「庚」の日を「中伏」、6回目の「庚」を「末伏」といいこの時期を三伏という。この時期が一年間で一番暑い時期といわれている。 詳しくは「三伏」を参照。
象の小屋に象が飼われているときに限ったが、毎年六月六日には象を宣武門の外に連れだし河で水浴びをさせた。多くの人々がこれを見に来た。あるとき象が暴れ人を傷つけたため、それ以降象は飼われなくなってしまった。しかし光緒十年(1884)にはまだ見られた。象小屋は宣武門内の城壁の傍らから西側にあり、天子の儀仗をつかさどる官署(鑾儀衛(らんぎえい))が管理していた。見学者がくると象は鐘や太鼓を鼻で鳴らした。見学者が象使いにお金を出すと、教えられた芸を見せてくれた。象は象使いを横目でみていて、「おもらい」の金額によっては鼻を高高とあげ、雄たけびを出すのであった。象が病に陥ると耳から油を出すという。それを「山性発」といった。しかし一般に象の寿命はながかった。道光年間(1821-50)にいた年老いた象の牙には銅の箍がはめられていた。その銅の箍は唐代のもので安禄山、史思明らが携えてきたものだという。後年、像使いらは上前をはね、象を冷遇したため、象は相次いで亡くなり、咸豊以後十年以上にわたり象小屋には象がいなかった。同治末年(1874)と光緒元年(1875)に二度にわたり越南(ベトナム)から二度にわたって6、7頭の象の献上があった。きわめて大きいものであった。都の人々は天下泰平の証と喜び、路上にあふれたが、東長安門で象が人を傷つけて後、監禁されてしまい、二度と天子のお召しがなかったために顧みられず、2,3年の間に餓死してすべて姿を消してしまった。

『日下旧聞考』によれば
象小屋は明の弘治八年(1495)に造られた。象は都に連れてこられると、まず射箭所で訓練された。そのため射箭所は演象所ともいった。また天子の直属部隊(錦衣衛(きんいえい))にも馴象所があり、それが象使いと象を管轄、天子の直属部隊からは一名を監督として任命していた。大式典では車をひかせ、宝物を担う役としていつもすべての象が使われた。一般の式典では6頭の象が使われるのみ。象にも階級があり、それに応じて禄が授けられていた。清になってからも似たようなもので、管轄が天子の直属部隊錦衣衛から名前が鑾儀衛にかわったのみである。

2001/08/01
改稿2011/05/31
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