燕京雑考@ブログ版
中国・北京の歴史、風習を紹介。一日一つを目指します。
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北京の蘇州街
留学していた頃、大学の近くに「蘇州街」という道の名前があり、それがとても気になっていました。本をなんの気なしに繰っていたところ、その由来について出ていましたので、それをご紹介しましょう。
さて、蘇州街の蘇州は、江南の地名の蘇州です。その昔、乾隆帝が皇太后、つまり母君のお誕生日の為にその一帯を蘇州に似せた町並みにしたことからその名前がついたといいます。
前に乾隆帝の事を調べていたわかったのですが、乾隆帝は江南の地方が大好きだったようです。数多い巡幸に母君も同行しているようですから、皇太后も江南が好きだったのではないでしょうか。
乾隆二十六年、孝聖太后の70歳を祝ったときに、乾隆帝は蘇州を模した町並みを作らせたようです。道の両側には明かりがともされ、10歩ごとに舞台が設けられ、5歩ごとに楽団が陣取っていたといいます。その全長3里、まさに蘇州の繁華街を思わせるものだったと物の本には書いてあります。そしてそれは年を追うごとに華やかになり、乾隆の末年には10里を超していました。乾隆の次、嘉慶五年まで続いたといいますが、その後あまりの浪費に蘇州街は廃止されました。ただ、万寿寺の廟会の期間だけ元の蘇州街の一帯に自由に市を設けることが出来たといいます。
書物を見てみると、現在蘇州街といわれているあたりは、その一部だったに過ぎないようです。北京城の西直門外、万寿寺から10里……。
蘇州街の絵ではないと思うのですが、乾隆帝の母君のお誕生日を祝う町の様子の絵が絵巻物になって残っています。(万寿盛典圖、九老作朋圖、厘延千梵圖など)。そこから見ても、とても華やかな催しだったようです。面白いのは、それらの絵の街行く人はほとんどが官僚で、女性の姿もなければ、一般庶民の姿もありません。このようなときにも女性は外出しなかったのでしょうか?
後宮の女性は一度中に入ってしまうとよほどのことがない限り、外に出ることはありませんでした。皇帝の巡幸にお供する機会なんかはそんなまれな機会だったでしょうね。そんなときに見た江南の風景に心奪われることは当然の成り行きでした。頤和園のなかにも蘇州街があります。これは西太后がつくらせたものですが、北方の人々にとって、潤いのある江南の風景は一種のあこがれだったのかもしれませんね。
留学していた頃、大学の近くに「蘇州街」という道の名前があり、それがとても気になっていました。本をなんの気なしに繰っていたところ、その由来について出ていましたので、それをご紹介しましょう。
さて、蘇州街の蘇州は、江南の地名の蘇州です。その昔、乾隆帝が皇太后、つまり母君のお誕生日の為にその一帯を蘇州に似せた町並みにしたことからその名前がついたといいます。
前に乾隆帝の事を調べていたわかったのですが、乾隆帝は江南の地方が大好きだったようです。数多い巡幸に母君も同行しているようですから、皇太后も江南が好きだったのではないでしょうか。
乾隆二十六年、孝聖太后の70歳を祝ったときに、乾隆帝は蘇州を模した町並みを作らせたようです。道の両側には明かりがともされ、10歩ごとに舞台が設けられ、5歩ごとに楽団が陣取っていたといいます。その全長3里、まさに蘇州の繁華街を思わせるものだったと物の本には書いてあります。そしてそれは年を追うごとに華やかになり、乾隆の末年には10里を超していました。乾隆の次、嘉慶五年まで続いたといいますが、その後あまりの浪費に蘇州街は廃止されました。ただ、万寿寺の廟会の期間だけ元の蘇州街の一帯に自由に市を設けることが出来たといいます。
書物を見てみると、現在蘇州街といわれているあたりは、その一部だったに過ぎないようです。北京城の西直門外、万寿寺から10里……。
蘇州街の絵ではないと思うのですが、乾隆帝の母君のお誕生日を祝う町の様子の絵が絵巻物になって残っています。(万寿盛典圖、九老作朋圖、厘延千梵圖など)。そこから見ても、とても華やかな催しだったようです。面白いのは、それらの絵の街行く人はほとんどが官僚で、女性の姿もなければ、一般庶民の姿もありません。このようなときにも女性は外出しなかったのでしょうか?
後宮の女性は一度中に入ってしまうとよほどのことがない限り、外に出ることはありませんでした。皇帝の巡幸にお供する機会なんかはそんなまれな機会だったでしょうね。そんなときに見た江南の風景に心奪われることは当然の成り行きでした。頤和園のなかにも蘇州街があります。これは西太后がつくらせたものですが、北方の人々にとって、潤いのある江南の風景は一種のあこがれだったのかもしれませんね。
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