燕京雑考@ブログ版
中国・北京の歴史、風習を紹介。一日一つを目指します。
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公主墳の二つのお話し
北京に留学した当初から気になっていたことの一つ。
北京のメインストリートを走るバスのルート「八王墳-公主墳」がありました。
訳すと「第八皇子のお墓-皇女のお墓」となります。
(ちなみに、ではその路線名は残っていません)
「皇女のお墓」……「お姫様のお墓」……いったい誰のお墓なのでしょうか。
今は環状線とメインストリートの立体交差になっているだけで何も残ってはいません。
なぞは深まるばかりだったのですが、ようやく二つのお話しに巡り会うことが出来ました。
今回は、そんな公主墳についてご紹介します。
八王墳についてはまた調べがついてから
北京に留学した当初から気になっていたことの一つ。
北京のメインストリートを走るバスのルート「八王墳-公主墳」がありました。
訳すと「第八皇子のお墓-皇女のお墓」となります。
(ちなみに、ではその路線名は残っていません)
「皇女のお墓」……「お姫様のお墓」……いったい誰のお墓なのでしょうか。
今は環状線とメインストリートの立体交差になっているだけで何も残ってはいません。
なぞは深まるばかりだったのですが、ようやく二つのお話しに巡り会うことが出来ました。
今回は、そんな公主墳についてご紹介します。
公主墳のおはなし その1
昔、満州族の皇帝に、満州族以外の民族をずっと敵対視していた皇帝がいました。その皇帝にはひとりのとても美しい皇女がいました。たくさんの隣国の皇子や王子から求婚がありましたが、この皇女の目にかなった男性はありませんでした。このころの元帥に金泰がいました。彼は年は若いものの戦の経験も豊富で、博学な男性でした。そして、そのうわさは皇女の耳にまで達していたのです。
ある日、皇女は香山に遊山に行く途中、練兵場で金泰に出会い、二人は恋に落ちました。そして二人はともに重い恋煩いを患ってしまいました。このことを聞いた皇帝は、すぐさま二人を結婚させ、二人は幸せな新婚生活を送っていました。
そんなある日、皇女と金泰は二人がであった香山麓に出かけました。金泰は亀山に向かって物思いに沈んでいます。そんな夫を見守りながら皇女は、夫は皇帝のためなら何人をも顔色一つ変えずに殺してしまう人だと言うことを思い起こし、不安を感じていたのです。そして彼女は「満州人の土地に侵入した他民族の人たちをすべて殺してしまうと言う、私たちの掟をなんとか亡くしてもらうように、父・皇帝にお話ししようと思っているのです」と夫に打ち明けました。そんな妻を見て金泰もまた不安を感じていたのでした。
明くる日、金泰は実は満州人ではなく漢人であるとの密告がありました。皇女は夫の出身を知るにおよび何とか彼を救おうと決心、彼の忠誠心を父である皇帝に訴えました。皇帝は娘の訴えに金泰を殺す事が出来ず、金泰を田舎に帰したのでした。
夫が田舎に帰ってから涙に暮れたいた皇女のもとに半年後、金泰の遺書が届きました。遺書には、皇女から近い亀山の麓に自らを葬って欲しいと書かれていました。彼女はその遺書を読むと、用意してあった毒杯をあおり自ら命を絶ってしまいました。
この悲劇は広く行き渡り、皇帝の耳にも入りました。皇帝は金泰を亀山に手厚く葬りました。しかし皇女はそこから遠く離れた土地に埋葬されたのです。それが現在の公主墳です。ここにはこんな悲しいお話しが隠されているのです。
公主墳のおはなし その2
明の終わり、孔有徳と言う将軍がいました。彼は明に仕えていましたが、その後清に仕え数々の功績を残し定南王に封されました。その後南方の反乱軍の鎮圧のために兵を率い、その途上で命を落とします。
この孔有徳には貞四という娘がありました。父亡き後北京に逃れ、時の順治帝の母宮に引き取られ宮中で皇女として育ちました。成長して内大臣・延齢に嫁ぎ、父の後を継いで定南王に封されました。夫婦はともに南方に赴きます。その後反乱が起き、夫は反乱軍に寝返ってしまいます。しかし孔貞四は夫が寝返ったあと夫に従わず、兵を率いて反乱軍を静め北京に戻り、97歳の天寿をまっとうしました。そして彼女が葬られた場所が皇女の墓・公主墳と呼ばれるようになったのです。
参考図書:
「北京伝統文化便覧」 北京燕山出版社
「老北京旅行指南」 北京燕山出版社
「北京伝統文化便覧」 北京燕山出版社
「老北京旅行指南」 北京燕山出版社
八王墳についてはまた調べがついてから
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