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燕京雑考@ブログ版
中国・北京の歴史、風習を紹介。一日一つを目指します。
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「東岳廟(とうがくびょう」(燕京歳時記)

東岳廟は、朝陽門の外、1kmほどの場所に位置している。毎月一日、十五日の縁日だが、三月には十五日からの半月も縁日になっている。この期間中、人々はこぞって参拝に訪るが、二十八日がピークとなる。この日は「だん塵会(だんじんえ)」つまり煤払いの日なのだが、東岳大帝(とうがくたいてい)の誕生日でもある。

東岳廟内には72の役所の名前をなぞらえた祠があり、それぞれ神様が祭られている。たとえば、「速報司」には岳飛(がくひ)が祭られているが、霊験がもっともあたらかであるといわれている。辱めを受けたり、無実の罪をかぶせられたりした人が、疑いを晴らすために誓いを立てたなら、その願いはすぐに叶うという。この祠の階段の前には秦檜(しんかい)のひざまずいた像が置かれているが、その像を見かけた人たちがつばを吐きかけるため、像の表情などはうかがいしれなくなっている。

奥の楼閣には文昌帝君(ぶんしょうていくん)が祭られている。この神もまた霊験あらたかで、科挙(官吏登用試験)の年には参拝者が連なる。この神の右側に銅のラバが一匹安置されているが、病を治すラバだ。耳を患っていれば耳を、目が悪ければ目を、足を病んでいれば足を触って治癒を祈願する。この楼閣の東側に半分ほど地中に埋もれた甲冑の像があるが、それは楊家の何とかという将軍だと言われているが、結局なんの神なのかはわかっていない。廟のなかに元の翰林院の趙孟頫(ちょうもうふ)が書いたという道教碑があるが、それは確かに趙孟頫によって書かれたものなのだが、職人が彫りすぎてしまったからだろう、本物の筆跡は窺い知れない。

『日下舊聞考(じっかきゅうぶんこう)』によれば、東岳廟は元の延祐年間(1314-20)建てられ、東岳天斉仁聖帝を祭っている。明の正統年間(1436-49)に拡張、左右に七十二司を、奥に皇妃らの行宮を設けた。清の康煕三十七年(1698)、住民らの不注意の火災で焼失したが、皇帝自らの財産からその資金を拠出、再建させ、3年の後落成した。楼閣は以前よりも整ったものとなった。乾隆二十六年(1761)に手が加えられ、廟内は重々しく統制されるようになった。こういう来歴で今にいたるまで皇帝が東陵を参拝する場合にはここに立ち寄り、焼香をし、食事をとるようになったという。

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