燕京雑考@ブログ版
中国・北京の歴史、風習を紹介。一日一つを目指します。
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「南頂」(燕京歳時記)
南頂の碧霞元君廟は永定門の外3kmほどのところに西向に建っている。左右に門があり、左の門には「廣生長養」、右の門には「羣育滋藩」とかかれた額がかかっている。この二つは、乾隆三十八年(1773)、修築時の乾隆帝の勅額である。毎年五月一日から十日間の縁日には多くの信者が集まる。廟は荒廃しているが、河原や小高いところに席がもうけられ、そこで落ち着いて飲み食いをしている。夕刻になると三々五々帰途につく。多くの参詣客はここから大沙子口にいき競馬をみる。
『宸垣識略(しんえんしきりゃく)』によれば
という。
現在でも山は残っているが、桃や柳は見る影もない。
南頂の碧霞元君廟は永定門の外3kmほどのところに西向に建っている。左右に門があり、左の門には「廣生長養」、右の門には「羣育滋藩」とかかれた額がかかっている。この二つは、乾隆三十八年(1773)、修築時の乾隆帝の勅額である。毎年五月一日から十日間の縁日には多くの信者が集まる。廟は荒廃しているが、河原や小高いところに席がもうけられ、そこで落ち着いて飲み食いをしている。夕刻になると三々五々帰途につく。多くの参詣客はここから大沙子口にいき競馬をみる。
『宸垣識略(しんえんしきりゃく)』によれば
南頂の南に流れる川は「涼水河」といい橋を「永定橋」という。小高い丘は「九龍山」といい、この山は涼水河を作ったときに掘られた土で作られた山で、まわりに桃、柳などが植えられた。縁日にはここに桟敷が作られ、人々はここで飲み食いをする。
という。
現在でも山は残っているが、桃や柳は見る影もない。
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