燕京雑考@ブログ版
中国・北京の歴史、風習を紹介。一日一つを目指します。
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西湖より包頭まで 5 燕京の二日間 -01 北京 前編
北京は北緯39度54分12秒、東経116度28分54秒にあるから、北温帯で気候の良いところである。
大陸性で夏季は最高気温が38℃以上に上り冬季は日最低零下30℃にも下るが
そんなきつい事は一冬または一夏を通じて幾日というほどしかない。
年中空気が乾燥しているから、湿気の多い日本の東京や、大阪などの冬または夏よりも、健康地であるだけ遥かに凌ぎよいといわねばならぬ。
ただ晩春蒙古風に襲われるとき、黄塵万丈、天日光を失うことがあるのが欠点というべきであるが、
八月より十一月までの秋季に際しては、天高く気澄み、
ことに月夜の寥廓なるが如きは、日本などにて味わうべからざるものがある。
位置はおおよそ直隷省の中央にあって、
滄海東をめぐり、大行西を擁し、古北、居庸の諸関北を守り、南の方黄河の大平原を帯ぶ。
形勝誠に天下に甲たりと称せらるるが、
昔の長安や洛陽が十八省の中央、当時文化の中心に位して崤函の固をたのんだに比べると、少しく北に偏している恨がないではない。
元来支那の帝王の宅たる、洛陽にしろ、長安にしろ、
爾来幾多の変遷があった鄴都卞京の類、いずれも多く王者の故郷に近い、
すなわち支那文化の中心部に都をさだめたのであるが、
北京に都城を定めたのは遼が会同年間(西紀936年)ここを南京としたのが最初で、
爾来金、元、清いずれも東胡人でなければ、蒙古人である。
すなわち外夷の都であるから、南方九州の野を抑え退いて祖宗発祥の地を守るため文化の中心を離れて、便宜上適当の地を選んだのである。
明の永楽帝がこの地に都したのもまた重きを龍興の地に置き、
あわせて北人制御の便を考えたのであったが、満人の勃興するやもろくも亡んだ。
けだしこの地北に対しての守りは弱い。
長城一重が喚問で懸軍容易に高きより低きに下る地であるからである。
換言すれば北の勢力に対しては敵しがたい都である。
上古燕が薊丘にあった当時はたとえ帯甲百万であったとするも、
文化の中心に遠いだけに、内天下の形勢を制するに足らなんだが、
五胡の乱にあって鮮卑族の慕容氏が遼東から出て、ここによるとともに、
辺垂防御の要鎮たるの素地を示し、隋代には東征の関門となり、
唐代に安禄山が范陽軍節度使となるや、容易に天下を動かしうるの勢いを得たのも、
まったくこの地の形勢に北方の力の加わったことに起因している。
爾来おおよそ千有余年近世の支那の政治尾はこの地を中心として回転した故に、
民国のはじめ、しばし南京に臨時政府があったが、
やがてこの地を首都として今日に及んでいるのも無理はない。
しかし北人にしてここによるはよいが、南人にしてここに居るは悪い。
元明両代その糧を江南に仰がねばならなかった土地であるから、
糟運に浮身をやつし、これをこの都の欠点と論じる人もあった。
今日では節路四通して、運河の要なきのみか、
郊外の開墾特に進捗したるがために、
粱粟南下してまた欠乏を感ずるなく、海運の利または近く天津を控え、
この糧食問題は心配せなくともよい。
しかし何といっても北方の物資は貧弱である。
たとえ京奉京綏の両線により、北方棗粟の利を集中しうるとしても、
到底長江一帯の膏沃の産に比すべからず。
加うるに漢人文化の中心は南宋以後すでに東南に傾き、
江蘇浙江から更に広東に波及している。
故に現在の漢民族を統一するにはどうしても北京は北に偏している。
~>゜)~<蛇足>~~
最高気温が38℃以上: 原文では華氏100度以上と書いてありましたがわかりやすく摂氏表示にしました。
なぜかこの本、単位が混在していてわかりにくいです。
燕京: 北京の別名です。
~>゜)~<蛇足2>~~
突然ですが、間を飛ばして、北京編を始めることにしました。
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