燕京雑考@ブログ版
中国・北京の歴史、風習を紹介。一日一つを目指します。
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「天台山」(燕京歳時記)
天台山は北京の西、磨石口にある。馬車で行くこともできる。翠微山の後ろに位置している。毎年三月十八日が縁日で、多くの人が焼香に訪れる。寺門は難産のふもとにあり、本堂は北山の頂にあり、相当はなれている。山にはいくつかの泉水が滾々と流れている。ここには魔王の伝説があるのだが、荒唐無稽で出所もよくわからないようなものである。
天台山は北京の西、磨石口にある。馬車で行くこともできる。翠微山の後ろに位置している。毎年三月十八日が縁日で、多くの人が焼香に訪れる。寺門は難産のふもとにあり、本堂は北山の頂にあり、相当はなれている。山にはいくつかの泉水が滾々と流れている。ここには魔王の伝説があるのだが、荒唐無稽で出所もよくわからないようなものである。
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「戒台万寿寺(かいたいばんじゅじ)」(燕京歳時記)
潭柘寺を参拝した人たちは、必ずといっていいほど戒台を訪れる。戒台には決まった縁日はないが、六月六日は経文の虫干しの日があり、この日は一般参詣を受け入れる。しかしこのときに寺を訪れる人は、この時期雨が多いこともあり多くはない。寺の名前は万寿寺といい、潭柘寺の東南にあり、松の木で有名である。北京観光の解説では必ずといって良いほど潭柘寺と一緒に書かれている。
『日下舊聞考』によれば、万寿寺は馬鞍山にあり、唐の武徳年間に建てられ「慧聚寺(えしゅうじ)」といった。明の正統年間に現在の名前に改められた。康煕、乾隆帝の書がある、と書かれている。寺には戒壇(仏の教えを授ける儀式を行う場所)がある。遼の咸雍(かんよう)年間(1065-74)に法均という僧がはじめて戒律を授けたが、明の正統年間に如幻律師に勅命で戒壇を造らせ、戒律を説かせたという。戒壇は殿内にあり、大理石で造ってある。寺の奥には、太古、観音、化陽、ほう涓、孫ひんという五つの洞があり、寺の西2.5kmほどのところには極楽峰がある。
潭柘寺を参拝した人たちは、必ずといっていいほど戒台を訪れる。戒台には決まった縁日はないが、六月六日は経文の虫干しの日があり、この日は一般参詣を受け入れる。しかしこのときに寺を訪れる人は、この時期雨が多いこともあり多くはない。寺の名前は万寿寺といい、潭柘寺の東南にあり、松の木で有名である。北京観光の解説では必ずといって良いほど潭柘寺と一緒に書かれている。
『日下舊聞考』によれば、万寿寺は馬鞍山にあり、唐の武徳年間に建てられ「慧聚寺(えしゅうじ)」といった。明の正統年間に現在の名前に改められた。康煕、乾隆帝の書がある、と書かれている。寺には戒壇(仏の教えを授ける儀式を行う場所)がある。遼の咸雍(かんよう)年間(1065-74)に法均という僧がはじめて戒律を授けたが、明の正統年間に如幻律師に勅命で戒壇を造らせ、戒律を説かせたという。戒壇は殿内にあり、大理石で造ってある。寺の奥には、太古、観音、化陽、ほう涓、孫ひんという五つの洞があり、寺の西2.5kmほどのところには極楽峰がある。
「潭柘寺(たんたくじ)」(燕京歳時記)
潭柘寺は渾河(フンフ)の近く、石景山(せっけいざん)の西、栗園荘の北の北京から40kmほどのところにある。毎年三月一日から半月の縁日があり焼香の煙が絶えない。寺は萬山の山中にあり、峰峯に囲まれている。泉水が流れているが、その流れは山門の前で地中に入る。「帝王樹」と呼ばれている銀杏の木は、高さ30数m、幹の太さは3mほど、樹齢1000年は超えている。そのほか木蓮、修竹、松、柏、菩提樹などの木もあるがみな樹齢数100という老木で、景勝を生み出している。かつては戒律も厳しく、酒をたしなむものは山門をくぐらなかったものだが、最近は酒を飲み、肉を食すものも訪れ、古の清らかさはなくなってしまった。寺には2匹の「大青」「小青」と呼ばれる霊蛇がいるというが、これは西山の秘魔崖に2匹のヘビの伝説があるが、同じ伝説なのかどうかはわからない。名前にもついている柘(やまぐわ)の木は、わずかしか残っていないが、元の妙厳公主が毎日拝んだといわれている「拝佛石(はいぶつせき)」と同じく古跡となっていて、寺を訪れた人たちはみなこれらを見物する。
『日下舊聞考』によれば、潭柘寺は羅[日侯]嶺(らこうれい)の平原村にあり、北京市内から45kmほどのところにある。晋の時代には「嘉福寺」、唐の時代には「龍泉寺」という名前だった。北京では「先に潭柘ありて、後に北京あり」と俗に言われているが、北京の一番古い寺院である。康煕年間に「岫雲寺(しゅううんじ)」と名を改めた。
寺のある場所は、もともと泉水の深み(潭)があった場所で、仏殿はその場所にある。唐の華厳法師が山中で説法をしたところ龍神が風雨を起こして淀みを平地にして、ここに寺院を建て寄進したという。現在深みはなくなり、泉の水が流れるのみである。柘の木は枯れてしまったが、その古木は屋根で覆われている。龍神は去り、今はその子がこの地にいるという。青い色で、長さは1.5m、太さは小鉢ぐらいあり、今尚時々現れるとのことである。
潭柘寺は渾河(フンフ)の近く、石景山(せっけいざん)の西、栗園荘の北の北京から40kmほどのところにある。毎年三月一日から半月の縁日があり焼香の煙が絶えない。寺は萬山の山中にあり、峰峯に囲まれている。泉水が流れているが、その流れは山門の前で地中に入る。「帝王樹」と呼ばれている銀杏の木は、高さ30数m、幹の太さは3mほど、樹齢1000年は超えている。そのほか木蓮、修竹、松、柏、菩提樹などの木もあるがみな樹齢数100という老木で、景勝を生み出している。かつては戒律も厳しく、酒をたしなむものは山門をくぐらなかったものだが、最近は酒を飲み、肉を食すものも訪れ、古の清らかさはなくなってしまった。寺には2匹の「大青」「小青」と呼ばれる霊蛇がいるというが、これは西山の秘魔崖に2匹のヘビの伝説があるが、同じ伝説なのかどうかはわからない。名前にもついている柘(やまぐわ)の木は、わずかしか残っていないが、元の妙厳公主が毎日拝んだといわれている「拝佛石(はいぶつせき)」と同じく古跡となっていて、寺を訪れた人たちはみなこれらを見物する。
『日下舊聞考』によれば、潭柘寺は羅[日侯]嶺(らこうれい)の平原村にあり、北京市内から45kmほどのところにある。晋の時代には「嘉福寺」、唐の時代には「龍泉寺」という名前だった。北京では「先に潭柘ありて、後に北京あり」と俗に言われているが、北京の一番古い寺院である。康煕年間に「岫雲寺(しゅううんじ)」と名を改めた。
寺のある場所は、もともと泉水の深み(潭)があった場所で、仏殿はその場所にある。唐の華厳法師が山中で説法をしたところ龍神が風雨を起こして淀みを平地にして、ここに寺院を建て寄進したという。現在深みはなくなり、泉の水が流れるのみである。柘の木は枯れてしまったが、その古木は屋根で覆われている。龍神は去り、今はその子がこの地にいるという。青い色で、長さは1.5m、太さは小鉢ぐらいあり、今尚時々現れるとのことである。
「東岳廟(とうがくびょう」(燕京歳時記)
東岳廟は、朝陽門の外、1kmほどの場所に位置している。毎月一日、十五日の縁日だが、三月には十五日からの半月も縁日になっている。この期間中、人々はこぞって参拝に訪るが、二十八日がピークとなる。この日は「だん塵会(だんじんえ)」つまり煤払いの日なのだが、東岳大帝(とうがくたいてい)の誕生日でもある。
東岳廟内には72の役所の名前をなぞらえた祠があり、それぞれ神様が祭られている。たとえば、「速報司」には岳飛(がくひ)が祭られているが、霊験がもっともあたらかであるといわれている。辱めを受けたり、無実の罪をかぶせられたりした人が、疑いを晴らすために誓いを立てたなら、その願いはすぐに叶うという。この祠の階段の前には秦檜(しんかい)のひざまずいた像が置かれているが、その像を見かけた人たちがつばを吐きかけるため、像の表情などはうかがいしれなくなっている。
奥の楼閣には文昌帝君(ぶんしょうていくん)が祭られている。この神もまた霊験あらたかで、科挙(官吏登用試験)の年には参拝者が連なる。この神の右側に銅のラバが一匹安置されているが、病を治すラバだ。耳を患っていれば耳を、目が悪ければ目を、足を病んでいれば足を触って治癒を祈願する。この楼閣の東側に半分ほど地中に埋もれた甲冑の像があるが、それは楊家の何とかという将軍だと言われているが、結局なんの神なのかはわかっていない。廟のなかに元の翰林院の趙孟頫(ちょうもうふ)が書いたという道教碑があるが、それは確かに趙孟頫によって書かれたものなのだが、職人が彫りすぎてしまったからだろう、本物の筆跡は窺い知れない。
『日下舊聞考(じっかきゅうぶんこう)』によれば、東岳廟は元の延祐年間(1314-20)建てられ、東岳天斉仁聖帝を祭っている。明の正統年間(1436-49)に拡張、左右に七十二司を、奥に皇妃らの行宮を設けた。清の康煕三十七年(1698)、住民らの不注意の火災で焼失したが、皇帝自らの財産からその資金を拠出、再建させ、3年の後落成した。楼閣は以前よりも整ったものとなった。乾隆二十六年(1761)に手が加えられ、廟内は重々しく統制されるようになった。こういう来歴で今にいたるまで皇帝が東陵を参拝する場合にはここに立ち寄り、焼香をし、食事をとるようになったという。
東岳廟は、朝陽門の外、1kmほどの場所に位置している。毎月一日、十五日の縁日だが、三月には十五日からの半月も縁日になっている。この期間中、人々はこぞって参拝に訪るが、二十八日がピークとなる。この日は「だん塵会(だんじんえ)」つまり煤払いの日なのだが、東岳大帝(とうがくたいてい)の誕生日でもある。
東岳廟内には72の役所の名前をなぞらえた祠があり、それぞれ神様が祭られている。たとえば、「速報司」には岳飛(がくひ)が祭られているが、霊験がもっともあたらかであるといわれている。辱めを受けたり、無実の罪をかぶせられたりした人が、疑いを晴らすために誓いを立てたなら、その願いはすぐに叶うという。この祠の階段の前には秦檜(しんかい)のひざまずいた像が置かれているが、その像を見かけた人たちがつばを吐きかけるため、像の表情などはうかがいしれなくなっている。
奥の楼閣には文昌帝君(ぶんしょうていくん)が祭られている。この神もまた霊験あらたかで、科挙(官吏登用試験)の年には参拝者が連なる。この神の右側に銅のラバが一匹安置されているが、病を治すラバだ。耳を患っていれば耳を、目が悪ければ目を、足を病んでいれば足を触って治癒を祈願する。この楼閣の東側に半分ほど地中に埋もれた甲冑の像があるが、それは楊家の何とかという将軍だと言われているが、結局なんの神なのかはわかっていない。廟のなかに元の翰林院の趙孟頫(ちょうもうふ)が書いたという道教碑があるが、それは確かに趙孟頫によって書かれたものなのだが、職人が彫りすぎてしまったからだろう、本物の筆跡は窺い知れない。
『日下舊聞考(じっかきゅうぶんこう)』によれば、東岳廟は元の延祐年間(1314-20)建てられ、東岳天斉仁聖帝を祭っている。明の正統年間(1436-49)に拡張、左右に七十二司を、奥に皇妃らの行宮を設けた。清の康煕三十七年(1698)、住民らの不注意の火災で焼失したが、皇帝自らの財産からその資金を拠出、再建させ、3年の後落成した。楼閣は以前よりも整ったものとなった。乾隆二十六年(1761)に手が加えられ、廟内は重々しく統制されるようになった。こういう来歴で今にいたるまで皇帝が東陵を参拝する場合にはここに立ち寄り、焼香をし、食事をとるようになったという。