燕京雑考@ブログ版
中国・北京の歴史、風習を紹介。一日一つを目指します。
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北京の城門の役割
北京は、かつて城壁に囲まれた町でした。そして人々や物資の行き来はは城門をくぐって行われていました。
今回は、その城門にはそれぞれの役割がありました。
それはどのような役割だったのでしょうか...
・西直門 水を運び込む門
北京の西の玉泉山より、皇帝の水を毎日運び込んだ。
・阜成門 石炭を運び込む門
石炭の産地が北京の西に位置する「門頭溝」だったので、石炭はこの城門から搬入された。
・宣武門 死刑囚が刑場に向かう門
宣武門外の菜市口に刑場があったため。
・正陽門 正門
皇帝が使う。また地方官僚たちが謁見のために北京を訪れたときにとおる門。
・崇文門 税関
税関があった場所。
ありし日の崇文門
・朝陽門 穀物を運び込む門
大運河最寄のもんだったので、運河を通じて運ばれた南方からの穀物などが運び込まれた。
・東直門 木材を運び込む門
東北から運び込まれる木材を運び込んだ
・安定門 し尿を運び出す門
城内住民のし尿を運び出していた
・徳勝門 凱旋門
戦に勝った軍隊が凱旋したときに使われた
これらが特に特徴的なものです。
他にも何かあったようななかったような。。。
また気がついたら、書き足していきます。
北京は、かつて城壁に囲まれた町でした。そして人々や物資の行き来はは城門をくぐって行われていました。
今回は、その城門にはそれぞれの役割がありました。
それはどのような役割だったのでしょうか...
・西直門 水を運び込む門
北京の西の玉泉山より、皇帝の水を毎日運び込んだ。
・阜成門 石炭を運び込む門
石炭の産地が北京の西に位置する「門頭溝」だったので、石炭はこの城門から搬入された。
・宣武門 死刑囚が刑場に向かう門
宣武門外の菜市口に刑場があったため。
・正陽門 正門
皇帝が使う。また地方官僚たちが謁見のために北京を訪れたときにとおる門。
・崇文門 税関
税関があった場所。
ありし日の崇文門
・朝陽門 穀物を運び込む門
大運河最寄のもんだったので、運河を通じて運ばれた南方からの穀物などが運び込まれた。
・東直門 木材を運び込む門
東北から運び込まれる木材を運び込んだ
・安定門 し尿を運び出す門
城内住民のし尿を運び出していた
・徳勝門 凱旋門
戦に勝った軍隊が凱旋したときに使われた
これらが特に特徴的なものです。
他にも何かあったようななかったような。。。
また気がついたら、書き足していきます。
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泥人形:西遊記
日本では沙悟浄は河童のように描かれますが、
中国では普通のお坊さん。沙和尚とも言われます。
孫悟空が緑の山のようなものに乗っているのがちょっと残念。
斛斗雲に乗っていればいいのに……
でも足の裏と山?は小さなバネで接続してあるので、ぴょこぴょこ動きます。
そのはりがねがあまりにも細すぎて、すぐにも壊れそうで怖いのですが。。。
日本では沙悟浄は河童のように描かれますが、
中国では普通のお坊さん。沙和尚とも言われます。
孫悟空が緑の山のようなものに乗っているのがちょっと残念。
斛斗雲に乗っていればいいのに……
でも足の裏と山?は小さなバネで接続してあるので、ぴょこぴょこ動きます。
そのはりがねがあまりにも細すぎて、すぐにも壊れそうで怖いのですが。。。
迎春花と連翹... その2 連翹
北京の春を真っ先に彩る花はその名も”迎春花”。日本ではなじみのない名前で、説明するときに「連翹のような...」というのですが、連翹とはまったく違う花です。今回は、”迎春花”を連翹と比較しながらご紹介します。
*連翹 Forsythia suspensa
連翹は花弁4枚。連翹は縦長に開きます。
共通点は、どちらも木犀科の植物。そしてちらも花が咲いてから、葉が出てきます。そしてどちらも中国が原産の花。迎春花は中国の華北、西南、華東地区の山岳地帯の原産だとのこと。挿し木で簡単に増やすことができるようです。連翹と同じように漢方薬にも用いられます。盆栽にしたり、庭に植えたりして、春を楽しむ植物が、迎春花です。
植物関係のサイトなどでお調べになるときには、迎春花は、「黄梅」と言う名前でお調べください。
迎春花が咲き、ヤナギの木から若葉が出始めると、長い冬からようやく開放された気分になって来る北京です。
北京の春を真っ先に彩る花はその名も”迎春花”。日本ではなじみのない名前で、説明するときに「連翹のような...」というのですが、連翹とはまったく違う花です。今回は、”迎春花”を連翹と比較しながらご紹介します。
*連翹 Forsythia suspensa
連翹は花弁4枚。連翹は縦長に開きます。
共通点は、どちらも木犀科の植物。そしてちらも花が咲いてから、葉が出てきます。そしてどちらも中国が原産の花。迎春花は中国の華北、西南、華東地区の山岳地帯の原産だとのこと。挿し木で簡単に増やすことができるようです。連翹と同じように漢方薬にも用いられます。盆栽にしたり、庭に植えたりして、春を楽しむ植物が、迎春花です。
植物関係のサイトなどでお調べになるときには、迎春花は、「黄梅」と言う名前でお調べください。
迎春花が咲き、ヤナギの木から若葉が出始めると、長い冬からようやく開放された気分になって来る北京です。
迎春花と連翹... その1 迎春花
北京の春を真っ先に彩る花はその名も”迎春花”。日本ではなじみのない名前で、説明するときに「連翹のような...」というのですが、連翹とはまったく違う花です。今回は、”迎春花”を連翹と比較しながらご紹介します。
*迎春花(別名黄梅、金腰帯)Jasminum nudiflorum
迎春花は低く枝垂桜のように枝が垂れています。
(枝が地に這う...という言い方もあるようですが)
花は、迎春花は花弁が5,6枚。連翹に比べて大きく開きます。
共通点は、どちらも木犀科の植物。そしてちらも花が咲いてから、葉が出てきます。そしてどちらも中国が原産の花。迎春花は中国の華北、西南、華東地区の山岳地帯の原産だとのこと。挿し木で簡単に増やすことができるようです。連翹と同じように漢方薬にも用いられます。盆栽にしたり、庭に植えたりして、春を楽しむ植物が、迎春花です。
植物関係のサイトなどでお調べになるときには、迎春花は、「黄梅」と言う名前でお調べください。
迎春花が咲き、ヤナギの木から若葉が出始めると、長い冬からようやく開放された気分になって来る北京です。
北京の春を真っ先に彩る花はその名も”迎春花”。日本ではなじみのない名前で、説明するときに「連翹のような...」というのですが、連翹とはまったく違う花です。今回は、”迎春花”を連翹と比較しながらご紹介します。
*迎春花(別名黄梅、金腰帯)Jasminum nudiflorum
迎春花は低く枝垂桜のように枝が垂れています。
(枝が地に這う...という言い方もあるようですが)
花は、迎春花は花弁が5,6枚。連翹に比べて大きく開きます。
共通点は、どちらも木犀科の植物。そしてちらも花が咲いてから、葉が出てきます。そしてどちらも中国が原産の花。迎春花は中国の華北、西南、華東地区の山岳地帯の原産だとのこと。挿し木で簡単に増やすことができるようです。連翹と同じように漢方薬にも用いられます。盆栽にしたり、庭に植えたりして、春を楽しむ植物が、迎春花です。
植物関係のサイトなどでお調べになるときには、迎春花は、「黄梅」と言う名前でお調べください。
迎春花が咲き、ヤナギの木から若葉が出始めると、長い冬からようやく開放された気分になって来る北京です。
なぜ耶律楚材の墓は頤和園にあるのか
頤和園内に耶律楚材の墓があることを不思議に思う人は少ないかもしれません。頤和園内にあることからなんとなく勘違いをして、耶律楚材が満州族だと思い込んでしまう人もいるとおもいます。耶律楚材とは、そしてなぜ彼の墓が頤和園にあるのかを探ってみましょう。
「先有潭拓寺、后有北京城」という有名な言葉がありますが、「先有楚材祠、后有清漪園」頤和園より先に耶律楚材の墓があったということば残っています。
はてさて、乾隆帝がこの地に頤和園の元となる清漪園(せいいえん)を造らせているときにその土地に墳墓が見つかったといいます。その墓に葬られた人とは。
耶律楚材は元の有名な宰相でした。彼は契丹人で遼王族の血を引いていて金の官僚の家に生まれました。そういうバックグラウンドもあって耶律楚材は金に出仕しましたが、その後チンギス=ハンに降って政治顧問となり、オゴタイ=ハンにも仕え、元の基礎を築き上げました。元では税制を整え帝国の経済的基礎を確立させたり、中国の土地の草地化をやめさせたりなど元にかなり貢献しましたが、オゴタイの死、権力を握った皇后の寵臣をいさめたことから左遷され、その後亡くまりました。
彼の政治姿勢は朝廷内外の評判が高く、彼が亡くなったときには士大夫から庶民まで多くの人が嘆き悲しみ、市も立たず、一切の娯楽が数日間行われなかったといいます。これを見た元の王朝は彼を丁重に葬ることにしました。そして北京の西に祠を建て彼を祭りました。しかし明の時代になるとモンゴル人に対する不満が一挙に噴出、耶律楚材の墓までもがその対象になりました。祠は取り壊され、彼を守る石像は目から光を放つなどと人々から恐れられ水の中に沈められたといいます。
時は流れ、乾隆帝の時代になってこの地に庭園が造られることになりました。造成中に墓地が発見され、歴史的な資料からここが耶律楚材の墓であることがわかり、乾隆帝は丁重に祭ることにしたといいます。皇室の庭園に祠があることは忌み嫌われるのですが、この祠の西に塀を作り、清漪園と隔てさせたといいます。のちに、頤和園の一角として開放され現在に至っています。
ちなみに清の時代には発見されなかった目から光を放ったといわれる石像は1979年に発見されたそうです。
頤和園内に耶律楚材の墓があることを不思議に思う人は少ないかもしれません。頤和園内にあることからなんとなく勘違いをして、耶律楚材が満州族だと思い込んでしまう人もいるとおもいます。耶律楚材とは、そしてなぜ彼の墓が頤和園にあるのかを探ってみましょう。
「先有潭拓寺、后有北京城」という有名な言葉がありますが、「先有楚材祠、后有清漪園」頤和園より先に耶律楚材の墓があったということば残っています。
はてさて、乾隆帝がこの地に頤和園の元となる清漪園(せいいえん)を造らせているときにその土地に墳墓が見つかったといいます。その墓に葬られた人とは。
耶律楚材は元の有名な宰相でした。彼は契丹人で遼王族の血を引いていて金の官僚の家に生まれました。そういうバックグラウンドもあって耶律楚材は金に出仕しましたが、その後チンギス=ハンに降って政治顧問となり、オゴタイ=ハンにも仕え、元の基礎を築き上げました。元では税制を整え帝国の経済的基礎を確立させたり、中国の土地の草地化をやめさせたりなど元にかなり貢献しましたが、オゴタイの死、権力を握った皇后の寵臣をいさめたことから左遷され、その後亡くまりました。
彼の政治姿勢は朝廷内外の評判が高く、彼が亡くなったときには士大夫から庶民まで多くの人が嘆き悲しみ、市も立たず、一切の娯楽が数日間行われなかったといいます。これを見た元の王朝は彼を丁重に葬ることにしました。そして北京の西に祠を建て彼を祭りました。しかし明の時代になるとモンゴル人に対する不満が一挙に噴出、耶律楚材の墓までもがその対象になりました。祠は取り壊され、彼を守る石像は目から光を放つなどと人々から恐れられ水の中に沈められたといいます。
時は流れ、乾隆帝の時代になってこの地に庭園が造られることになりました。造成中に墓地が発見され、歴史的な資料からここが耶律楚材の墓であることがわかり、乾隆帝は丁重に祭ることにしたといいます。皇室の庭園に祠があることは忌み嫌われるのですが、この祠の西に塀を作り、清漪園と隔てさせたといいます。のちに、頤和園の一角として開放され現在に至っています。
ちなみに清の時代には発見されなかった目から光を放ったといわれる石像は1979年に発見されたそうです。