燕京雑考@ブログ版
中国・北京の歴史、風習を紹介。一日一つを目指します。
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門墩(メンドン)
北京の古い家の入り口の両脇に、石の飾り物が置いてありますが、それをメンドンといいます。獅子や箱型でさまざまな彫り物が施してあるもの、太鼓型のものがあったりと、胡同を歩きながら見て歩く楽しみもあります。
もともと、メンドンは、その家の格式をがわかるようになっていたようです。獅子の置物は皇族及び官公庁。獅子+太鼓型の石は武官の家、獅子+箱型の石は文官の家...などと決められていたといいます。
これらの石には中国の吉祥の模様が彫られています。瑞雲、鶴、吉祥結び、八仙人のシンボル、鹿、蓮……。これらは人々の思いが彫られていたと思われます。
李華さんのお宅のメンドン
私の身近なところでは、いつも登場いただく李華さんのお宅のメンドンがあります。李華さんのお宅のメンドンは「壽」の文字が彫られています。これは珍しいものらしく、写真を撮って行く人もいると李華さんが言っていました。その実、「北京門墩」という本のなかに、李華さんのお宅のメンドンが載っています。
文化大革命の期間中、古いものがどんどん壊されましたが、このメンドンも例外ではありませんでした。胡同を歩いているとメンドンをたくさん見る事が出来ますが、傷ついたものが多く、その10年間があたえた傷跡の深さを思い知らされます。
李華さんのお宅のお隣のメンドン
現在、メンドンは保護されていて、かってに動かすことができないのだそうです。
留学生をたくさん受け入れている北京語言文化大学のキャンパスの中に。たくさんのメンドンが展示されている一角があります。でも、胡同の家々の前に置いてあるメンドンのほうが、見ていて楽しいものがあります。
北京の古い家の入り口の両脇に、石の飾り物が置いてありますが、それをメンドンといいます。獅子や箱型でさまざまな彫り物が施してあるもの、太鼓型のものがあったりと、胡同を歩きながら見て歩く楽しみもあります。
もともと、メンドンは、その家の格式をがわかるようになっていたようです。獅子の置物は皇族及び官公庁。獅子+太鼓型の石は武官の家、獅子+箱型の石は文官の家...などと決められていたといいます。
これらの石には中国の吉祥の模様が彫られています。瑞雲、鶴、吉祥結び、八仙人のシンボル、鹿、蓮……。これらは人々の思いが彫られていたと思われます。
李華さんのお宅のメンドン
私の身近なところでは、いつも登場いただく李華さんのお宅のメンドンがあります。李華さんのお宅のメンドンは「壽」の文字が彫られています。これは珍しいものらしく、写真を撮って行く人もいると李華さんが言っていました。その実、「北京門墩」という本のなかに、李華さんのお宅のメンドンが載っています。
文化大革命の期間中、古いものがどんどん壊されましたが、このメンドンも例外ではありませんでした。胡同を歩いているとメンドンをたくさん見る事が出来ますが、傷ついたものが多く、その10年間があたえた傷跡の深さを思い知らされます。
李華さんのお宅のお隣のメンドン
現在、メンドンは保護されていて、かってに動かすことができないのだそうです。
留学生をたくさん受け入れている北京語言文化大学のキャンパスの中に。たくさんのメンドンが展示されている一角があります。でも、胡同の家々の前に置いてあるメンドンのほうが、見ていて楽しいものがあります。
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東北旺と西北旺の名前の由来
留学したばかりのころ、中国人になりすまし東北旺の「中日友好人民公社」によく出かけました。あの時代、あのあたりは外国人に開放されていない場所でした。
あのころから東北旺の「旺」という字が実は気になっていたのですが、それはただ、日本人に珍しい字だったからだけかもしれません。
そしてその後、東北旺とそしてちょっと奥に、「西北旺」があることに気がついて「旺」が何かを指しているのではとずっと気にかかっていました。
地名の由来についてかいてある本を手に入れ、調べてみると、こんなことがわかりました。
このあたりに「百望山」という山があったそうです。万寿山、金山口。それに連なる山が「百望山」。北京を望めることからその名前がついたのでしょうか。その山は後に「安河山」と名前が変わりますが東児望、西児望という地名だけは残りました。「百望山」の東、そして西という意味です。
中華民国の時代になり、それらの地名は盛んであるという意味の「旺」を使った、「東北旺」と「西北旺」と変わりました。
このあたりはかつて「秧歌」で有名で「天下第一会」と呼ばれていました。それが最近老人たちの手によって、復活されようとしています。かつて山には廟があったりもしたそうですが、何も残っていないそうです。
90年代、「百望山」という名がよみがえりました。「百望山防火瞭望塔」が建てられたということです。
注)東北旺は北京市の頤和園、円明園の北にある地名です。
かつては農地が広がっていた地域でした。
留学したばかりのころ、中国人になりすまし東北旺の「中日友好人民公社」によく出かけました。あの時代、あのあたりは外国人に開放されていない場所でした。
あのころから東北旺の「旺」という字が実は気になっていたのですが、それはただ、日本人に珍しい字だったからだけかもしれません。
そしてその後、東北旺とそしてちょっと奥に、「西北旺」があることに気がついて「旺」が何かを指しているのではとずっと気にかかっていました。
地名の由来についてかいてある本を手に入れ、調べてみると、こんなことがわかりました。
このあたりに「百望山」という山があったそうです。万寿山、金山口。それに連なる山が「百望山」。北京を望めることからその名前がついたのでしょうか。その山は後に「安河山」と名前が変わりますが東児望、西児望という地名だけは残りました。「百望山」の東、そして西という意味です。
中華民国の時代になり、それらの地名は盛んであるという意味の「旺」を使った、「東北旺」と「西北旺」と変わりました。
このあたりはかつて「秧歌」で有名で「天下第一会」と呼ばれていました。それが最近老人たちの手によって、復活されようとしています。かつて山には廟があったりもしたそうですが、何も残っていないそうです。
90年代、「百望山」という名がよみがえりました。「百望山防火瞭望塔」が建てられたということです。
注)東北旺は北京市の頤和園、円明園の北にある地名です。
かつては農地が広がっていた地域でした。
参考文献「北京地名典」 中国文聯出版社
漬物屋さんの老舗「六必居」の名前の由来
前門大街という北京の繁華街に「六必居」というお漬物やさんがあります。看板からもわかるように老舗です。
言い伝えによれば、明の嘉靖九年(1530年)趙という兄弟が開いた酒店がその始まりだといいます。
酒造りには六つの「必」からなる決まりがあって、そこから「六必居」という名前がつけられたと、長年言われてきました。しかし、研究が進むにつれて、酒造りとは関係がなのでは……といわれるようになりました。
この店が開かれたのは清の康煕年間であることがであるらしいことが判明します。そして雍正六年(1728年)の帳簿から「源昇号」というのが最初の店の名前だったことがわかりました。「六必居」という名前が帳簿で初めて出てくるのは、乾隆六年(1741年)だということです。
また、六必居の名前の由来についてですが、六必居は酒を造ってはいなかったというのです。酒を造っていなければ、上にあげた「六必」が店の心得でなくてもよいわけです。趙兄弟も、兄弟の出身地も酒造りとは関係がない。それでは、その「六必」とは何なのか……
「開門七件事」という言葉があります。これは「暮らしをたてていくのに必要な七つのもの」ということです。中国では「柴、米、油、塩、味噌、酢、茶」を「開門七件事」といいます。
六必居ではお茶以外の生活必需品を扱っていたということです。そこから「六つの生活必需品を売る店」……「六必居」と言う名前がつけられたのではないでしょうか。
「六必」は酒造りの秘訣の「六必」ではなく、「柴、米、油、塩、味噌、酢」という生活の「六必」需品から来た名前だと言うことがわかりました。そんなお店が、お漬物やさんになった経過については、別途調べる必要があります。
「甜醤八宝菜」、「甜醤蘿蔔」が私のお気に入りのお漬物。前門のほうに遊びに出かけたときには必ず立ち寄って量り売りで買ってきます。北京にはもう一件老舗のお漬物屋さん「天源醤園」がありますが、ここで紹介していることでおわかりいただけると思いますが、私は「六必居」がお気に入りです。同じお漬物でも、ちょっと味が違うと思うのは気のせいでしょうか……。
蛇足になりますが、この店の歴史には、名前以外にも数々のなぞがあります。上にあげた店の名前の額ですが、この文字を誰が書いたのか……それもわかっていません。一説によると明の大臣・厳崇だとも言われています。しかし、「六必居」というなが清の乾隆年間になってついた名前だとすれば……なぞは深まるばかりです。
前門大街という北京の繁華街に「六必居」というお漬物やさんがあります。看板からもわかるように老舗です。
言い伝えによれば、明の嘉靖九年(1530年)趙という兄弟が開いた酒店がその始まりだといいます。
酒造りには六つの「必」からなる決まりがあって、そこから「六必居」という名前がつけられたと、長年言われてきました。しかし、研究が進むにつれて、酒造りとは関係がなのでは……といわれるようになりました。
この店が開かれたのは清の康煕年間であることがであるらしいことが判明します。そして雍正六年(1728年)の帳簿から「源昇号」というのが最初の店の名前だったことがわかりました。「六必居」という名前が帳簿で初めて出てくるのは、乾隆六年(1741年)だということです。
また、六必居の名前の由来についてですが、六必居は酒を造ってはいなかったというのです。酒を造っていなければ、上にあげた「六必」が店の心得でなくてもよいわけです。趙兄弟も、兄弟の出身地も酒造りとは関係がない。それでは、その「六必」とは何なのか……
「開門七件事」という言葉があります。これは「暮らしをたてていくのに必要な七つのもの」ということです。中国では「柴、米、油、塩、味噌、酢、茶」を「開門七件事」といいます。
六必居ではお茶以外の生活必需品を扱っていたということです。そこから「六つの生活必需品を売る店」……「六必居」と言う名前がつけられたのではないでしょうか。
「六必」は酒造りの秘訣の「六必」ではなく、「柴、米、油、塩、味噌、酢」という生活の「六必」需品から来た名前だと言うことがわかりました。そんなお店が、お漬物やさんになった経過については、別途調べる必要があります。
「甜醤八宝菜」、「甜醤蘿蔔」が私のお気に入りのお漬物。前門のほうに遊びに出かけたときには必ず立ち寄って量り売りで買ってきます。北京にはもう一件老舗のお漬物屋さん「天源醤園」がありますが、ここで紹介していることでおわかりいただけると思いますが、私は「六必居」がお気に入りです。同じお漬物でも、ちょっと味が違うと思うのは気のせいでしょうか……。
蛇足になりますが、この店の歴史には、名前以外にも数々のなぞがあります。上にあげた店の名前の額ですが、この文字を誰が書いたのか……それもわかっていません。一説によると明の大臣・厳崇だとも言われています。しかし、「六必居」というなが清の乾隆年間になってついた名前だとすれば……なぞは深まるばかりです。
地名に残る八王墳(第八王子のお墓)の第八王子って誰のこと?
北京に留学した当初から気になっていたことの一つ。
北京のメインストリートを走るバスのルート「八王墳-公主墳」がありました。
訳すと「第八皇子のお墓-皇女のお墓」となります。
(ちなみに、ではその路線名は残っていません)
今回は「第八皇子のお墓」の由来です。
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八王は、清朝の始祖・ヌルハチの第十二皇子・アジゲのことです。アジゲは明を責め、北京の近くを平定、「英親王」となり「八王」(八番目の王子)と称されました。そしてその後「平西大将軍」になります。しかし野望は大きく、弟ドルゴンが摂政を務めているとき、自分がその地位にとって変わることを夢見、ドルゴン亡き後、その地位につくべく画策をしますが、それが暴かれ、幽閉の身となり、40歳で死を賜ります。
そのアジゲのお墓がこの「八王墳」なのです。1900年代初頭まで建物は残っていたそうですが、そのご建物は取り壊され、また周囲の樹木も木材として売り払われ、形をなくしてしまいました。
現在その跡地は「北京醸酒工場」になっています。一時地名もほかのものに変わりましたが、1977年「八王墳」というもとの地名が復活しいまにいたっています。
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北京に留学した当初から気になっていたことの一つ。
北京のメインストリートを走るバスのルート「八王墳-公主墳」がありました。
訳すと「第八皇子のお墓-皇女のお墓」となります。
(ちなみに、ではその路線名は残っていません)
今回は「第八皇子のお墓」の由来です。
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八王は、清朝の始祖・ヌルハチの第十二皇子・アジゲのことです。アジゲは明を責め、北京の近くを平定、「英親王」となり「八王」(八番目の王子)と称されました。そしてその後「平西大将軍」になります。しかし野望は大きく、弟ドルゴンが摂政を務めているとき、自分がその地位にとって変わることを夢見、ドルゴン亡き後、その地位につくべく画策をしますが、それが暴かれ、幽閉の身となり、40歳で死を賜ります。
そのアジゲのお墓がこの「八王墳」なのです。1900年代初頭まで建物は残っていたそうですが、そのご建物は取り壊され、また周囲の樹木も木材として売り払われ、形をなくしてしまいました。
現在その跡地は「北京醸酒工場」になっています。一時地名もほかのものに変わりましたが、1977年「八王墳」というもとの地名が復活しいまにいたっています。
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参考図書:
「北京地名典」 中国文聯出版社
「北京地名典」 中国文聯出版社
城壁に囲まれた街・北京
北京は、かつて城壁に囲まれた町でした。その城壁は中華人民共和国となって以来、交通の便をよくするために取り壊され、その跡は、「ニ環路(アルフゥァンルゥ)」という四角形の環状道路となりました。ものの本によれば、城壁の上は馬車が通れるほどであったといいますから、城壁を取り除いた跡は幹線道を作るに値する幅があったのです。
明、清の時代北京は二つの部分に分かれていました。内城と外城です。内城は、俗に言う北京城の部分で、9つの門がありました。この9つの門のうち、現存するのは正陽門という故宮の真南にある門と、徳勝門という北西のもんです。外城は、内城南に出っ張るような形の部分で、言ってみれば「下町」のような場所でした。そして、ニ環路は内城と外城を取り囲むように角張った瓢箪型で町を取り囲んでいます。
城壁も門もほとんど存在しない現在でも、ニ環路が城壁のように存在しているため、地名をかつてあった門の名前で言っても何の違和感もありません。朝陽門の内側は、朝陽門内、外側は朝陽門外。通りの名前も同じく、東直門外大街などついています。
また、城内と城外、城内でもその場所場所によって町の雰囲気が全然違います。内城は紫禁城があり、官僚なども住んでいただけあって、格式ばった雰囲気がありますし、外城は商店も多く、道も込み入っていて、なんとなく繁雑とした感じ。ほっとしたいときには内城の胡同(フートン)(横丁)を、人々の生の生活に直に触れたいときには外城の胡同をあるってみることをお勧めします。
そうそう、北京をよくご存知の方だったら、建国門、復興門、和平門がこの地図にはないことに気がつかれるでしょう。これらの門は、後に交通の便を考えあけられた門です。特に、和平門は、外国が中国を侵略、大使館を作りましたが、その交通の便のために、作らせたといってもいい門です。この門ができたとき、街の人たちは「風水が壊れる」と大騒ぎをしたとも伝えられています。
ニ環路の内城部分を循環している路線バスもあります。特に夏は、お堀ほとりの緑も多く、すがすがしい風景を見ることができます。試しに1周して見ませんか?ただし、交通渋滞に巻き込まれることが多いので、時間が十分にあるときに、お試しください。
北京は、かつて城壁に囲まれた町でした。その城壁は中華人民共和国となって以来、交通の便をよくするために取り壊され、その跡は、「ニ環路(アルフゥァンルゥ)」という四角形の環状道路となりました。ものの本によれば、城壁の上は馬車が通れるほどであったといいますから、城壁を取り除いた跡は幹線道を作るに値する幅があったのです。
明、清の時代北京は二つの部分に分かれていました。内城と外城です。内城は、俗に言う北京城の部分で、9つの門がありました。この9つの門のうち、現存するのは正陽門という故宮の真南にある門と、徳勝門という北西のもんです。外城は、内城南に出っ張るような形の部分で、言ってみれば「下町」のような場所でした。そして、ニ環路は内城と外城を取り囲むように角張った瓢箪型で町を取り囲んでいます。
城壁も門もほとんど存在しない現在でも、ニ環路が城壁のように存在しているため、地名をかつてあった門の名前で言っても何の違和感もありません。朝陽門の内側は、朝陽門内、外側は朝陽門外。通りの名前も同じく、東直門外大街などついています。
また、城内と城外、城内でもその場所場所によって町の雰囲気が全然違います。内城は紫禁城があり、官僚なども住んでいただけあって、格式ばった雰囲気がありますし、外城は商店も多く、道も込み入っていて、なんとなく繁雑とした感じ。ほっとしたいときには内城の胡同(フートン)(横丁)を、人々の生の生活に直に触れたいときには外城の胡同をあるってみることをお勧めします。
そうそう、北京をよくご存知の方だったら、建国門、復興門、和平門がこの地図にはないことに気がつかれるでしょう。これらの門は、後に交通の便を考えあけられた門です。特に、和平門は、外国が中国を侵略、大使館を作りましたが、その交通の便のために、作らせたといってもいい門です。この門ができたとき、街の人たちは「風水が壊れる」と大騒ぎをしたとも伝えられています。
ニ環路の内城部分を循環している路線バスもあります。特に夏は、お堀ほとりの緑も多く、すがすがしい風景を見ることができます。試しに1周して見ませんか?ただし、交通渋滞に巻き込まれることが多いので、時間が十分にあるときに、お試しください。