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燕京雑考@ブログ版
中国・北京の歴史、風習を紹介。一日一つを目指します。
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文人の描いた旧都・北京 陳独秀 『北京十大特色」』より
北京はこんな都市


一人の友達がヨーロッパから戻り、北京にはヨーロッパ各国には見られないこういった十の特別な部分があると話してくれた。
1.戒厳のときでなくても街中には銃を持った警官が溢れ市民を威嚇している。

2.一本のとてもよい新華街といった通りが、城壁までで行き止まり。

3.自動車がとても狭い通りで人ごみにぶつかったとしても、警官はそれを止めようとはしない。

4.位の高い軍人が馬にも乗らず、自動車に乗って敵前に向うかのごとく走っている。

5.十二、三才の子供や、六十数才の老人が通りで人力車を引いているが、警察はそのことに口を挟まない。

6.風が吹き砂埃が空を蔽っても、人力で水をまくだけで、給水車を使う事はない。

7.城内城外のほとんどは車が通れる路だが、主要道だる前門橋だけは高さが安定しない石敷きの道だ。

8.「公園」と名前が付いているのに、入場券を買わなければ入場できない。

9.総統府の前や軍司令部の前が通行禁止になっている。

10.安定門外の糞溜の臭さは、天下一だ。

1919年6月1日


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1919年に書かれた文章。ということは五四運動の直後で、北京の十の欠点を書き連ねています。

時代がよくわかります。

10番目には笑ってしまいましたが、ちなみに安定門は、かつてし尿の運び出しがなされていた門です。


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陳独秀 (1880-1942): 中国近代史上とても重要な人なので、ご存知の方も多いと思います。あちこちに紹介されていますので、詳しくは、中国史関係の資料をご参照ください。有名な著作に「独秀文存」、「文義類例」、「実庵自伝」など。

テキストは:
「北京乎・現代作家筆下的北京(1919-1949)」
三聯書店

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文人の描いた旧都・北京 彭子岡 『北平歳寒図」』より
北京在住の日本人


日本人は北平においても活気溢れている。金持ちはお上の後ろに集まり、貧しいものは法令下なんとか先進的な位置にへばりついているいるといったように。
東城のある胡同では、たくさんの着飾った日本人子女が見受けられる。また東安市場の日本人の購買力は特筆するに値する。

そして、日本人の中国恋慕の根幹は、北平にあるようだ。

河北省政府が「新生活運動」を繰り広げるなか、特に注意したのが生活の日本式の生活をいかに排除するかということであった。しかし弁当を携えること、冬にマスクをかけることなど排除できないことがある。

194?年冬


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はっきりと何年と書かれていないので、前後の文章から何年なのか後ほど考証したいと思います。

かつて北京にはたくさんの日本人が住んでいたといいます。特に東城区に多かったようで、私も何度か東城区のあたりをご案内したことがあります。

この文章から見るに、マスクは日本から中国に行ったのでしょうか。お弁当などやはり中国の人たちにも便利だったのでしょうね。


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彭子岡 (1914-1988): ジャーナリスト、作家。

テキストは:
「北京乎・現代作家筆下的北京(1919-1949)」
三聯書店
「龍が頭を擡(もた)げる日」燕京歳時記)

二月二日、古来この日は「陰陽の気が中和する日(中和節)」と呼ばれてきた。今の人たちは「龍が頭を擡げる日」といっている。この日に食べる平たいパンは「龍のうろこパン」といい、麺は「龍のヒゲの麺」といわれる。この日は龍の目を傷つけないようにということで、針仕事はしないことになっている。


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訳注:


陰陽の気が中和する日(中和節):二月一日を中和節として祝うようになったの『帝京歳時紀勝(ていけいさいじきしょう)』によると唐の時代だという。この日朝廷では大宴会を催し、庶民に穀物などの種を与えたという。中和とは、陰陽相和すると言う意味。この日から陰と陽が逆転し、夏に向かう。
太陽のお菓子と中和節はもともと同じ日であったが、いつからか、中和節は龍が頭を擡げる日となってしまったようだ。
『帝京歳時紀勝』は清の中期の歳時記。藩栄陛(はんえいへい)著。

「太陽のお菓子」(燕京歳時記)

二月一日、米の粉で平たい円盤状のパンを作り、それを5枚重ねる。その上に1寸ちょっとの大きさの小さな鶏の飾りをつける。これが「太陽のお菓子」と呼ばれるものだ。都に住む太陽を祭る人たちはこれを買って、お供えとする。3つ供える人もいれば、5つという人もいて、その数は決まっていない。

 
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訳注:


平たいパン:一般にはそのまま「餅」と訳され、注釈がついていますが、あえて「平たいパン」と訳しました。実態は小麦粉を練って焼いたアラブ風のパンのようなもの。インド料理のナンのようなものといったらわかりやすいでしょうか
「開印(御用始め)」(燕京歳時記)


開印(御用始め)の期日は、大体十九、二十、二十一日の三日間だが、天文管轄の部門の欽天監が吉日吉時を定め、期日が通知される。
この日には官吏は礼服を着て儀式を行う。

開印の後は、通常業務が行われる。


注釈:
仕事納めは「封印」といわれる。その封印を開けることから御用始めは「開印」となります。
「封印」というと、中国では現在も、重要な箇所を占める場合「封印」がなされます。そのとき、しっかり印が押されているのが印象的です。
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