燕京雑考@ブログ版
中国・北京の歴史、風習を紹介。一日一つを目指します。
×
[PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。
「提灯祭り(提灯の節句)」(燕京歳時記)
十三日から十七日までの間を提灯祭り(提灯の節句)といい、十五日は正灯という。毎年提灯祭りには、宮廷では饗宴が開かれ、花火が挙げられ、街には提灯が下げられる。大通りの提灯飾りは、東四牌楼と地安門が一番華やかだ。工部、兵部の通りがこれに次ぐが、他の提灯はこれらに及ばないが、東安門の新街口、西四牌楼のものは見るに足るもがある。(兵部の提灯は光緒九年に閻敬銘により禁止となった)
様々な提灯は、薄絹、ガラス、板膠で作られ、古今の物語が描かれていて目を楽しませてくれる。器用な街の人は、氷で器を作ったり、麦の苗で人形を作ったりしている。華麗だが派手ではなく、素朴だが野暮ではなく、見るに値する。
花火を売る屋台では各種の花火を製造し、巧を競い、奇を争っている。花火には箱から挙げるもの、花器から花が咲くようなもの、竿につけた花火、牡丹や蓮、月が落ちるさま、ぶどう棚を表したものや、連発式の花火など色々な種類があり、これらを金持ち、夜権力のある家が競い合うように買い求める。花火は火の樹木に銀の花が咲いたようで、その光は人を照らしている。道行く車馬は騒がしく、笙の音やら歌声も喧しい。これが白昼から夜10時に至るまで続くのだ。夜10時ごろには、花火も落ち着き始め、人影は地に落ち、明月が空に現れ、人々は笑い興じながらそれぞれに去っていく。
市では、様々な食べ物が売られているが、元宵が多く見られる。これがこの季節の風物ともいえる。また金魚を売る姿も見られる。ガラス瓶に金魚をいれ、その影を動かしている。大きさが変わって見える。これは他の場所では見られない。
『日下旧聞考』によれば、
十三日から十七日までの間を提灯祭り(提灯の節句)といい、十五日は正灯という。毎年提灯祭りには、宮廷では饗宴が開かれ、花火が挙げられ、街には提灯が下げられる。大通りの提灯飾りは、東四牌楼と地安門が一番華やかだ。工部、兵部の通りがこれに次ぐが、他の提灯はこれらに及ばないが、東安門の新街口、西四牌楼のものは見るに足るもがある。(兵部の提灯は光緒九年に閻敬銘により禁止となった)
様々な提灯は、薄絹、ガラス、板膠で作られ、古今の物語が描かれていて目を楽しませてくれる。器用な街の人は、氷で器を作ったり、麦の苗で人形を作ったりしている。華麗だが派手ではなく、素朴だが野暮ではなく、見るに値する。
花火を売る屋台では各種の花火を製造し、巧を競い、奇を争っている。花火には箱から挙げるもの、花器から花が咲くようなもの、竿につけた花火、牡丹や蓮、月が落ちるさま、ぶどう棚を表したものや、連発式の花火など色々な種類があり、これらを金持ち、夜権力のある家が競い合うように買い求める。花火は火の樹木に銀の花が咲いたようで、その光は人を照らしている。道行く車馬は騒がしく、笙の音やら歌声も喧しい。これが白昼から夜10時に至るまで続くのだ。夜10時ごろには、花火も落ち着き始め、人影は地に落ち、明月が空に現れ、人々は笑い興じながらそれぞれに去っていく。
市では、様々な食べ物が売られているが、元宵が多く見られる。これがこの季節の風物ともいえる。また金魚を売る姿も見られる。ガラス瓶に金魚をいれ、その影を動かしている。大きさが変わって見える。これは他の場所では見られない。
『日下旧聞考』によれば、
明代の提灯祭りは、東華門王府街の東と崇文街の西まで、二里にわたり、その南北に店が出た。すなわち今の灯市口である。提灯市の日には珠玉から日用の小さなものまで、あらゆるものが売られていた。店は規則正しく、碁盤目状に並んでいたが、向かい合って二階建ての店があった。そこには毛氈が敷かれ、簾幕がかけられており、宴席が設けられるようになっていが、一日あたりの料金は数百緡(びん)で、貴族など金持ちが借りた。提灯は、ガラス、ガラス糸、紗、膠板などなどがあった。音楽も鳴り響き、雑技が演じられた。花火は棚や、箱に仕掛けてあるもの、葡萄棚、真珠簾などといったものがあった。一月八日が初日で、十八日まで催された。つまり期間は現在のように五日間ではなく、当時は十日間だったということだ。色々なものがあつまる市ということについては、当時は提灯と市が一緒だったが、現在では、提灯は内城に、市は外城の琉璃廠でわかれて催されるようになったということだ。
PR
故宮の2月のカレンダー壁紙 2012
故宮の2012年2月のカレンダー壁紙
故宮博物院のサイトで毎月UPしている、
カレンダーの壁紙のシリーズ「小趣」。
2月は南宋の「霜筱寒雛図」。
オリジナルサイズは、
故宮博物院 → 紫禁城時空http://www.dpm.org.cn/shtml/115/@/9036.html#480
でダウンロードしてください。
ほかにも、いろいろな壁紙がダウンロードできます。
この壁紙は、待ち受けに使える小さいサイズもあります。
(あまりはっきりしませんが...)
故宮の2012年2月のカレンダー壁紙
故宮博物院のサイトで毎月UPしている、
カレンダーの壁紙のシリーズ「小趣」。
2月は南宋の「霜筱寒雛図」。
オリジナルサイズは、
故宮博物院 → 紫禁城時空http://www.dpm.org.cn/shtml/115/@/9036.html#480
でダウンロードしてください。
ほかにも、いろいろな壁紙がダウンロードできます。
この壁紙は、待ち受けに使える小さいサイズもあります。
(あまりはっきりしませんが...)
故宮の2012年2月のカレンダー壁紙
故宮博物院のサイトで毎月UPしている、
カレンダーの壁紙のシリーズ「故宮的符号」。
紫禁城の中の「金水橋」の写真です。
オリジナルサイズは、
故宮博物院 → 紫禁城時空http://www.dpm.org.cn/shtml/115/@/9036.html#480
でダウンロードしてください。
ほかにも、いろいろな壁紙がダウンロードできます。
故宮博物院のサイトで毎月UPしている、
カレンダーの壁紙のシリーズ「故宮的符号」。
紫禁城の中の「金水橋」の写真です。
オリジナルサイズは、
故宮博物院 → 紫禁城時空http://www.dpm.org.cn/shtml/115/@/9036.html#480
でダウンロードしてください。
ほかにも、いろいろな壁紙がダウンロードできます。
立春の習慣に「春餅(チュンピン)」を食べる習慣と「咬春」の習慣があります。
「咬春」とは、生の大根をかじる事。生の大根をかじってその辛味で「春困(しゅんこん)」といわれる春の眠気を吹き飛ばすのだそうです。
「春餅」は、メキシコのタコスのようなものですが、朝日新聞の家庭欄にそのレシピが載っていたのでご紹介。(2000/03/05付)
「咬春」とは、生の大根をかじる事。生の大根をかじってその辛味で「春困(しゅんこん)」といわれる春の眠気を吹き飛ばすのだそうです。
「春餅」は、メキシコのタコスのようなものですが、朝日新聞の家庭欄にそのレシピが載っていたのでご紹介。(2000/03/05付)
「春餅」の作り方
皮:
強力粉150g 薄力粉120g ごま油小さじ1 熱湯200ccを混ぜ、耳たぶぐらいの軟らかさにして20分ねかせる。棒状に延ばし20個に分け、1個直径6cmに伸ばす。ごま油を塗って2枚重ねる。それを直径18cmほどに再び延ばし、中火のフライパンで両面に焼き色をつけ、膨らんだら2枚にはがし、それぞれを4枚おりにする。
味噌:
ごま油大さじ1で葱のみじん切り30gをさっといためる。赤だし味噌70g 砂糖小さじ2 水カップ半分を加えて混ぜる。
具:
鶏ささみ40gを千切りにしてしょうが汁、酒、片栗粉をまぶして油で炒め、もやし150gを加え塩で味付け。
豚の細切り肉100gに醤油、酒、しょうが汁、片栗粉をまぶし油で炒め、ザク切りの韮100gを加え塩で味付け。
塩を加えた溶き卵2個分を半熟状に炒る、別に長葱のみじん切り大さじ1 カニ100gを強火で油で炒め、半熟状の炒り卵を加え少々炒める。
皮は食べる間際に5分ほど蒸す。
「春打ち (立春)」(燕京歳時記)
立春を「春打ち」という。ちなみに立春は、一月にあることが多い。立春の前日、北京地方を治める順天府の官吏たちが東直門から一里離れたところに設けられた「春場」に出向いて春を迎える。立春当日は、礼部の官吏は春山宝座という春の山の形をした玉座を作って皇帝に進呈する。順天府からは春牛図が進呈される。この儀式が終わると官吏たちは役所に戻り、春牛を引き出し、鞭で打つ。これが春打ちである。
この日、金持ちの家では春餅を食べる。女性や子供たちは大根を買って食べるが、これを「春を咬む」といい、こうすると春の眠気を追いやることが出来ると言われている。
『礼部則例』には、次のようなことが記されている。
立春を「春打ち」という。ちなみに立春は、一月にあることが多い。立春の前日、北京地方を治める順天府の官吏たちが東直門から一里離れたところに設けられた「春場」に出向いて春を迎える。立春当日は、礼部の官吏は春山宝座という春の山の形をした玉座を作って皇帝に進呈する。順天府からは春牛図が進呈される。この儀式が終わると官吏たちは役所に戻り、春牛を引き出し、鞭で打つ。これが春打ちである。
この日、金持ちの家では春餅を食べる。女性や子供たちは大根を買って食べるが、これを「春を咬む」といい、こうすると春の眠気を追いやることが出来ると言われている。
『礼部則例』には、次のようなことが記されている。
立春の一日前、順天府の長官は配下の官吏を従えて、官吏の礼服を着用、東直門外において「春」を迎える。配下が春の神・勾芒神と土で作った牛(土牛)を担いで、鳴り物を先頭に役所の前に来て、美しい色とりどりの布をめぐらした小屋の帳の中に安置する。立春の当日には、大興、宛平の二つの県の 知事が机を午門の外の正面中央に設けて、恭しく皇帝、皇太后、皇后に勾芒神と土牛を進奉し、春山宝座もそれに添える。順天府 の学校、大興県、宛平県の学校の学生らがこれを担ぎ、礼部の管理が先導して、後ろには尚書省次官、順天府長官と次官が随い、午門の中央の門から入り、乾清門、慈寧門に来て、恭しく献上する。そこからは宦官が取り次ぎ奏上される。儀式が終わると皆退出するが、そのとき順天府長官が土牛を出し、これを鞭打つが、これには勸農の意味がある。また『湧幢小品』には、明の正統年間に、毎年立春に、順天府は春の牛、春の花を作り、皇帝と仁寿宮に献上するものと、あわせて祭壇が三基つくる。それぞれ金銀玉翠などで飾られ、九万以上の費用がかかった。皇帝の即位があると次の年には三基増やされる。あまりの負担に宛平の民衆が陳訴をし、花が代わりに用いられたこともあった。