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燕京雑考@ブログ版
中国・北京の歴史、風習を紹介。一日一つを目指します。
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賣鴨蛋図(アヒルの卵売りの図)



アヒルの卵売りですが、生卵ではなく、塩漬け卵"咸蛋"を売っています。
生卵は、保存が利きませんが、塩漬けにしたら、保存が利いたので、
一般的に卵というと、塩漬けが流通していました。
いわゆる卵の保存食です。
北京と天津の間の通州から売りに来ていたそうです。
 
"咸蛋"
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賈茶湯図(賣湯売りの図)



”茶湯”とは...
どろ~~んとした、日本でいうと葛湯のようなものですが、
原料は粟の粉や高粱の粉なので、粟湯?とでも言いましょうか...
重湯のようなもので朝ごはん代わりにもします。
飲み物ではなく、一種の”おやつ”(中国語で言うところの小吃)の種類です。
お茶の種類のものではありません。

この売り子には、技術が必要といわれていています。
お碗に粟の粉や、黒砂糖など材料を入れ
目の前で巨大な銅製のやかんからお湯を注ぎいれ、
粥状にするのが、一種の技術なそうです。
そしてその粥状になったものを供します。

天秤棒ですが、
片方には、水桶、片方は、火桶になっていて
火桶の上には巨大な銅製のやかんをおいて、お湯を沸かしています。

ちなみに、現在も伝統的な食べ物を伝えるべくこんな形が残されています。
北京民間生活彩図:剃頭図(床屋の図)



北京の床屋は、街中を天秤棒かついで歩き回りました。
そして、頭を剃って、辮髪を結っていました。
当時、中国の男性は、辮髪... 頭の後頭部の髪を長く伸ばし、三つ網に結っていました。
江戸時代の丁髷にたとえられることが多いです。
床屋さんは、日本の江戸時代で言ったら、道具を持って得意先回りをする「廻り髪結い」の雰囲気でしょうか。

日本でも、江戸時代月代を剃りましたが、
同様に、中国では清の時代、清の時代、辮髪を結う髪以外は剃りました。
日本と同じように、顔も剃ってくれたとのことです。

床屋さんは帽子をかぶっていますが、
清の時代、辮髪を結って、その上には、お碗のような帽子をかぶりました。
理髪をされている人の帽子が、洗面器を置いている道具の上にかぶせられています。

古い写真を見つけました。


北京民間生活彩図は、清朝末期、同治、光緒の北京の生活の様子を描いたものです。

北京図書館に保管されていてその後、「北京民間風俗百図」として1982年に書目文献出版社から出版されました。

清朝末期のさまざまな、職業の人たちが描かれています。

お楽しみいただけたら、幸いです。


ちなみに、”北京民間生活彩図”には解説がついていますが、
解説を翻訳するのではなく、独自の解説をつけています。

天安門の前は現在長安街というメインストリートになっていますが、ちょうどこの通りにかつては長安右門と長安左門という門があり、外部から天安門には直接入って来れないようになっていました。


この二つの門のうち、長安左門は「龍門」と呼ばれていました。そうです。登竜門の「龍門」です。

中国では「科挙(かきょ)」というとても厳しい官吏登用試験が行われていました。郷試、会試、殿試というのが主な科挙の試験です。郷試に合格したものが、会試を受け、会試に合格したものが殿試を受けます。そして最終段階の殿試の最終試験には皇帝自らの面接テストが行われるのです。この殿試の最高位の合格者三名は一位から「状元(じょうげん)」、「榜眼(ぼうがん)」、「探花(たんか)」といわれます。

さて、殿試のあと二日後に合格者の発表があります。紫禁城にて合格者の名前が呼ばれるのですが、呼ばれた後、管理によって長安左門に名前の書いてある立て札が運ばれ立てられるのです。合格発表の前、それらの受験生たちはなんの功績もない普通の人ですが、名前が書かれた立て札がその門をくぐったときに、その人たちは官吏としての第一歩を踏み出すことから、鯉が「龍門」をくぐって龍になったの故事にたとえられ、「龍門」と呼ばれるようになったのです。

もう一方の長安右門は「虎門」と呼ばれていました。と言うのは、死刑囚が最後の死刑宣告を受け、刑場に向かう門だったからです。

死刑の最終宣告は秋と冬に行われました。冬の場合には霜降まえに死刑囚は天安門前の西千歩廊で最終的な刑の宣告を受け、冬至の日に長安右門から、宣武門を経て、刑場(菜市口)に向かいました。運良く、最終宣告を受けないものもあったようです。それらの死刑囚たちは、一年命を永らえたと、家族が首に赤いサンザシの実をかけて祝ったといいます。しかし、最終宣告を受けたものたちは、「虎の口に入って行くがごとく」であったことから、この門は、「虎門」と呼ばれたのでした。

かたや「龍門」、かたや「虎門」……。この二つの門は、現在はないものの、かつては向かい合って存在していたのでした。

ちょっと蛇足になりますが、この同じ時代に「東は生をつかさどり、西では死をつかさどる(東邊掌生、西邊掌死)」という言葉があったといいます。現在の天安門広場の西側にはかつて軍や裁判やそれに関したお役所が並んでいました。それでこのあたりは「生死街」と呼ばれていました。反対に東側は、お金や、皇族、貴族がかかわるまつりごとについてのお役所などがありました。そのことから「富貴街」と呼ばれていたそうです。

現在は、天安門が残るだけで、お役所もそして、長安右門、長安東門も残っていませんが、世界に誇る広い広場には、このような歴史が残っていました。

注)地図をクリックすると、拡大した地図を見ることができます。

 

参考図書:
『天安門広場歴史档案』
中共中央党校出版社
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