燕京雑考@ブログ版
中国・北京の歴史、風習を紹介。一日一つを目指します。
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結婚式によく見られる喜ぶと言う漢字を二つ会わせたデザインを「双喜」といいます。
これは、日本でも中華料理の食器などに使われているので、おなじみかもしれません。
その「双喜」は、鳥はカササギで、あらわされます。
カササギは中国語で「喜鵲」という名前。
この鳥を2羽デザインすることで「双喜」を表しています。
それには必ず梅が配され「双喜梅梢」といい、「梅梢」は「眉梢」目元に... という意味です。
「喜上眉梢」は喜びに目を輝かすという意味があるようです。
結婚式に使われるデザインです。
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北京は、別名「燕の都・燕京(えんけい または えんきょう)」といいます。その名前はどこから来たのでしょうか。
辞書を紐解くと、鳥のツバメと北京を意味する「燕」では発音が違いことに気がつきます。
鳥のツバメは、イェンとちょっとなげやりに言った感じの「yan4声」。北京を意味する「燕」はけだるくイェンと同じトーンで言った感じの「yan1声」。こう書いただけではちょっとわかりにくいかもしれませんが、日本語で言ったら、「すずり」と「煙」といったぐらいの発音の違いが中国語ではあるのです。(ってどんな説明でしょう(^^ゞ)
歴史ががお好きな方なら、燕といえば、春秋戦国時代の燕の国を思い浮かべられるでしょう。そうです。北京の「燕」はそこからきているのです。その燕の国の都。それが北京の別称の「燕京」なのです。
それでは北京とは?
南京は皆さんもご存知ですよね。元の時代、大都がその都でした。大都とは元の時代の北京の名前です。そして元のあと、明が起こり、現在の南京に置きます。南京は都が置かれた当時「京師」、つまり都といわれますが、その後、燕の地を治めていた燕王であった永楽帝が即位、都を燕の地に移し、その都を北の都「北京」、そしてそれまでの都を南の都「南京」と呼ぶようになるのです。
そうです、北京とは、古いようで、新しい名前なのです。燕京という北京の別称が、実は北京より古い名前なのでした。
春になり、燕がたくさん飛ぶ季節になると、燕の都、というのもあながちうその名前ではないのだなぁと思うのでした。
辞書を紐解くと、鳥のツバメと北京を意味する「燕」では発音が違いことに気がつきます。
鳥のツバメは、イェンとちょっとなげやりに言った感じの「yan4声」。北京を意味する「燕」はけだるくイェンと同じトーンで言った感じの「yan1声」。こう書いただけではちょっとわかりにくいかもしれませんが、日本語で言ったら、「すずり」と「煙」といったぐらいの発音の違いが中国語ではあるのです。(ってどんな説明でしょう(^^ゞ)
歴史ががお好きな方なら、燕といえば、春秋戦国時代の燕の国を思い浮かべられるでしょう。そうです。北京の「燕」はそこからきているのです。その燕の国の都。それが北京の別称の「燕京」なのです。
それでは北京とは?
南京は皆さんもご存知ですよね。元の時代、大都がその都でした。大都とは元の時代の北京の名前です。そして元のあと、明が起こり、現在の南京に置きます。南京は都が置かれた当時「京師」、つまり都といわれますが、その後、燕の地を治めていた燕王であった永楽帝が即位、都を燕の地に移し、その都を北の都「北京」、そしてそれまでの都を南の都「南京」と呼ぶようになるのです。
そうです、北京とは、古いようで、新しい名前なのです。燕京という北京の別称が、実は北京より古い名前なのでした。
春になり、燕がたくさん飛ぶ季節になると、燕の都、というのもあながちうその名前ではないのだなぁと思うのでした。
財神廟は彰儀門外にある。毎年九月十五日から三日間のご開帳がある。お参りにやってくるのは、梨園の子弟、遊郭の遊女が多い。貴族の物好きなものも籠に乗ってやって来る。
彰儀門とは、広安門のことだ。
彰儀門とは、広安門のことだ。
重陽に、蟹の糟漬けで良郷酒を飲むのが最高だ。良郷酒はもともと良郷の酒だが、このごろでは都でも作られるようになった。良郷酒は芳醇で、これを飲めば心地よくなる。しかし暑さに弱く、夏を越すことができない。洋梨は、梨の一種で、形はマルメロの形、色はアヒルの雛のような色をしている。そのため「鴨児廣」ともいうが、廣は黄のこと。柿とサンザシは多くの需要があるが、都の季節の風物だ。
『寄園寄所寄』と言う書物にはこんなことが書いてある。
明の太祖がまだ身分が低かったころ、二日間食事も出来ずに、従うものもなくただ一人剰柴村を通りかかった。そこには見捨てられた庭園があった。すべて兵卒によって焼き払われ、塀も壊れ、樹木も痛んでいた。太祖は寂しく、あたりを見渡した。見ると、庭のすみに一本の柿木があって、柿の実が熟していた。太祖はこれを取って食べた。十個も食べるとお腹も満たされながらも、心痛めてこの地を去った。1355年、あたりを平定した際この地を通りかかったところ、まだその柿の木は残っていた。太祖はその木を指差し人々に、その柿の木について話して聞かせた。そして馬から下り、赤い上着をその木に与え「汝を凌霜侯に封ずる」と仰せになった。
柿木の、君主に対する功績だ。これをここに記しておきたい。ほかにも記載があるが、この柿木の幸運をたたえているのだ。
『寄園寄所寄』と言う書物にはこんなことが書いてある。
明の太祖がまだ身分が低かったころ、二日間食事も出来ずに、従うものもなくただ一人剰柴村を通りかかった。そこには見捨てられた庭園があった。すべて兵卒によって焼き払われ、塀も壊れ、樹木も痛んでいた。太祖は寂しく、あたりを見渡した。見ると、庭のすみに一本の柿木があって、柿の実が熟していた。太祖はこれを取って食べた。十個も食べるとお腹も満たされながらも、心痛めてこの地を去った。1355年、あたりを平定した際この地を通りかかったところ、まだその柿の木は残っていた。太祖はその木を指差し人々に、その柿の木について話して聞かせた。そして馬から下り、赤い上着をその木に与え「汝を凌霜侯に封ずる」と仰せになった。
柿木の、君主に対する功績だ。これをここに記しておきたい。ほかにも記載があるが、この柿木の幸運をたたえているのだ。