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燕京雑考@ブログ版
中国・北京の歴史、風習を紹介。一日一つを目指します。
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粉彩像生瓷果品盤

おめでたい食べ物をお皿に並べました....

という感じですが、これは、色づけされた陶磁器で作られた物です。
本物のように作られた陶器を像生瓷というそうです。

お皿には、蟹、クルミ、ナツメ、茘枝、クワイ、ザクロ、落花生、蓮の実、サクランボ、ヒシの実などがのっています。

蟹は、一甲をあらわします。
一甲とは、科挙の最終試験「殿試」の最優秀のクラスのことで、
”祈・一甲合格”といった意味合いがあります。

茘枝は、茘枝の木は400年を経ても頑丈であるということから長寿を意味します。

くるみ、ざくろは、”たくさんの子供に恵まれますように
ナツメ、落花生は、”早く子に恵まれますように”という意味があります。

ということから、早くたくさんの子供に恵まれ、優秀な子供になりますように...
というようなデザインです。

結婚式に、使われたのでしょうね...

写真は、故宮の清の乾隆年間のものです。
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民間でも中秋節は祝いましたが、もちろん宮中でもお祝いしました。

中秋のその日、後宮の御花園には屏風が東向きに立てられ、
その両脇に鶏冠花、枝豆、サトイモ、落花生、ダイコン、レンコンなどが供えられました。
屏風の前にはテーブルが置かれ、そこには、大きな月餅を中心にお菓子や果物が供せられたといいます。
屏風は兔児爺が描かれた物だったのではと思います。


この夜はご馳走に舌鼓をうったそうですが、季節物のカニが供せられました。
今でも、この時期にはカニがかなり売りに出されます。

この他、中秋節をテーマにした出し物が演じられたそうです。

雍正十二月行楽図・八月賞月

絵は、はっきり見えないので、申し訳ないのですが
「雍正十二月行楽図」より「八月賞月」です。
-もう一つの嫦娥のお話

 昔、昔、そのまた昔、天地創造のころ、空には10の太陽ありました。しかしこの10の太陽のうち実は9つがニセモノで、ただ一つが本物の太陽だったのです。弓と名手として名高かった后 羿が贋の太陽を射落とす役目をおおせつかりました。そして宝の弓と神の矢をで一気に九つの太陽を射落と、その功績で河川の神様「河伯」の美しい娘、嫦娥と結婚をしました。

 永遠の命を持たない「生き物」である后羿は、不老長寿を望むようになりました。西王母はこの願いを聞き入れ、不老長寿の薬をあたえ、断食をしたあとその薬を飲むように后 羿にいいました。そして后羿は誰にも知られないように家の梁に薬を隠し、穏便に事を運んでおりました。

 しかし后羿はその不老長寿の薬についてを妻の嫦娥に話しました。嫦娥は不老長寿となった夫に一人取り残されることを恐れ、夫の隙を狙って薬を飲んでしまったのです。

 薬を飲むと、彼女の体は軽くなり、空に浮かびました。そして后羿が気がついたときには、嫦娥は后羿の弓を持っても届かない遠いところ、月に向かって飛んでいるところだったのです。月についた嫦娥は不老不死となったものの、孤独にすごしているということです。

故宮博物院サイトの、カードシリーズから



夏圭の山水画、松渓泛月図
添えられているのは、晏殊の『燕帰梁』です。

夏圭、晏殊ともに、そうの時代の人です。

興味のある方は、ぜひ、故宮博物院のサイトへ!
-中秋節の由来-

 昔、昔、そのまた昔、10の太陽が一度に空に現れたことがありました。大地は荒れ果て、海は干上がり、人々は暮らしを立てることすらできなくなりました。このころ后羿(こうげい)という勇敢な若者がいました。その力は万斤の宝の弓を引くことができ、どのように恐ろしい獣でも射ることができたといいます。彼は人々の苦しむ様子を見て宝の弓と神の矢を持って一気に九つの太陽を射落としました。最後の太陽は許しを乞い、后 羿が怒りを静め弓を納めて、太陽に人々のために決まった時間に昇り、沈んでいくことを約束させました。

 后羿の名前は天下にとどろき、人々は彼を敬いました。その後彼は嫦娥(じょうが)という娘を嫁に取りました。嫦娥はとても美しく、そして穏やかで、聡明な女性でした。二人の仲はむつまじく、幸せに暮らしていました。とくに嫦娥は心やさしく、常々夫の狩ってきた獲物をみなに分け与えており、人望も厚いものがありました。そしてみなは、后羿はよい嫁をもらったとうわさしておりました。

 ある日、狩の途中で后羿は一人の年老いた道士に出会いました。老道士は后 羿の人となりに感服し、一包みの不老長寿の薬を与えたのでした。この薬を飲めば不老長寿を得ることができ、天に上り仙人になることができるのです。しかし后 羿は妻や自分の周りの人々とはなれて一人天に赴こうとは思いませんでした。家に帰ると不老長寿の薬を嫦娥に渡し、つづらの中にしまわせたのでした。

 このころ、后羿のもとには、彼の威名をしたって多くの人たちが集まっていました。その仲に蓬蒙(ほうもう)という悪賢いものがおりました。蓬蒙は不老長寿の薬を奪い、自分で飲んで仙人になろうと考えたのです。

 その歳の8月15日 后羿は弟子たちを連れて狩に出かけていました。夕暮れ前に蓬蒙はひそかに戻り、嫦娥の部屋に忍び込み不老長寿の薬を渡すよう嫦娥に迫ったのです。嫦娥はやむにやまれず薬を全部飲んでしいました。すると彼女の体は突然軽くなり、窓を抜け出し、一直線に空高く舞い上がったのです。しかし彼女の夫を思う気持ちは強く、地上から一番近い月に彼女は降り立ちました。

 后羿が家に戻ったとき、すでに妻・嫦娥の姿は見えませんでした。侍女の話でようやく后羿は事の次第を知ったのでした。急いで外に出て月を見てみると、、月はいつもよりも丸く、いつもよりも輝いて見えました。それは愛する妻が自分を見守ってくれているようでもありました。彼は覚悟を決めて月を追いかけました。しかしどうしても月にたどり着くことはできません。后羿は妻を思うと心張り裂けんばかりでした。彼は庭に嫦娥の好きだった果物などをおき、彼女を祭りました。近くの人たちもそれにならい、果物をのせたテーブルを供え心やさしい嫦娥をしのんだのでした。

 次の年の8月15日夜。この日も月は特別に丸く、明るく輝いていました。そして后羿はこの日も果物をたくさん置いたテーブルを月明かりの元に供えて妻を思ったのです。それが毎年続き、世間にも伝わり、8月15日が中秋であったことから中秋節としてお祭りするようになったということです。

 月の月宮に入った嫦娥ですが、彼女は日々夫を思い、故郷を思いどのようなご馳走も美しい舞も彼女の心を和ませることはできなかったといいます。毎年8月15日、嫦娥は宮城の門の外に出て、はるか地上の故郷を眺めるのでした。この彼女の美しいその顔が、月を、さらにさらに輝かせ、さらに丸く見せるのだということです。

「民間節日故事」より


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嫦娥のお話には、西王母から不老長寿の薬を盗んだというお話もありますが、今回は特にこちらのお話をご紹介しました。

ある伝説では、唐の玄宗皇帝は道士に導かれ月の宮を訪れたということです。そのときの仙女の舞が後に残る玄宗作曲の「霓裳羽衣曲(げいしょうういのきょく)」だといいます。とすれば玄宗も嫦娥に会ったのでしょうね。

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