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燕京雑考@ブログ版
中国・北京の歴史、風習を紹介。一日一つを目指します。
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暑い日が続いているので、今日は水墨画のアニメ鑑賞。

水墨画って、涼しげじゃありませんか?

一番のお気に入りは... というよりも、
一番最初にであったのが、「牧笛」という
水牛と牧童のアニメ...です。



せりふが全然ないので、中国語がわからなくても大丈夫です。


水墨画アニメと言うと、もう四半世紀以上前に作られたものばかりですが、
最近でも、水墨画3Dアニメなるものを作っていらっしゃる方もいるそうですね。

古い水墨画アニメもいろいろあって、動画サイトで発掘するのが楽しいです。


動画リンクを変更しました → こちら ← からどうぞ!

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ちょっとぼやけてはっきりしないのですが、写真は、子供達の新しい学校の校舎に飾ってある、昔の箱馬車です。新しい学校の下見に出かけたときに息子が撮ってきた写真です。

もちろん、これは私の持っている骨董品ではなく、私のであった骨董品です。


そうそう、ちょっと前に、区画整理で建物を取り壊したとき、近所でこの箱馬車が出てきたのよ。昔はこんな箱馬車に乗って出かけたらしいわね。


映画会社に売れば金になるんじゃない?って近所の人達皆で話したのよ。


そう言ったのは、いつも登場願うぽんず家のお手伝いさんの李華さん。


さて、この箱馬車ですが、いったいどう言うものでしょうか。



中国語で書くと「轎車」とかくのですが、「轎」とは籠のこと。馬に引かせたお籠というのが文字通りの意味です。箱馬車というよりも、馬に引かせた「牛車」というほうが日本人のイメージにあうかもしれません。というのはかつてはお役人たちの乗り物で、その車を見れば、どの官位の人が乗っているかがわかったといいます。


一般の人が箱馬車に乗れるようになったのは、それまでの階級社会が壊れた辛亥革命以后。つまり清朝がなくなってからのことでした。お金持ちの家では自家用があり、そして現在のタクシーのようなものもあったといいます。



この箱馬車は主に、遠出に使われました。近場では人力車が活躍していた時代です。地主が郊外の地所に小作料を取り立てに行くようなときになど、お金持ちの自家用箱馬車が用いられました。貸し出しの箱馬車は冠婚葬祭、嫁とりや、霊柩車としての用途が多かったようです。


この箱馬車、乗りやすいものではなかったようで、すぐに様式のものに取って代わられます。というのも車の中では座らねばならなかったからです。


実物がをご覧になりたい方。子供がインターナショナルスクールにいないとがっかりなさらないでください。北京のケンピンスキーホテルに飾ってあります。エレベーターを過ぎて、左側。中華料理のレストランの前に置かれていますので、ぜひご覧ください。



2001/12/25
改稿2011年07/11

象の小屋に象が飼われているときに限ったが、毎年六月六日には象を宣武門の外に連れだし河で水浴びをさせた。多くの人々がこれを見に来た。あるとき象が暴れ人を傷つけたため、それ以降象は飼われなくなってしまった。しかし光緒十年(1884)にはまだ見られた。象小屋は宣武門内の城壁の傍らから西側にあり、天子の儀仗をつかさどる官署(鑾儀衛(らんぎえい))が管理していた。見学者がくると象は鐘や太鼓を鼻で鳴らした。見学者が象使いにお金を出すと、教えられた芸を見せてくれた。象は象使いを横目でみていて、「おもらい」の金額によっては鼻を高高とあげ、雄たけびを出すのであった。象が病に陥ると耳から油を出すという。それを「山性発」といった。しかし一般に象の寿命はながかった。道光年間(1821-50)にいた年老いた象の牙には銅の箍がはめられていた。その銅の箍は唐代のもので安禄山、史思明らが携えてきたものだという。後年、像使いらは上前をはね、象を冷遇したため、象は相次いで亡くなり、咸豊以後十年以上にわたり象小屋には象がいなかった。同治末年(1874)と光緒元年(1875)に二度にわたり越南(ベトナム)から二度にわたって6、7頭の象の献上があった。きわめて大きいものであった。都の人々は天下泰平の証と喜び、路上にあふれたが、東長安門で象が人を傷つけて後、監禁されてしまい、二度と天子のお召しがなかったために顧みられず、2,3年の間に餓死してすべて姿を消してしまった。

『日下旧聞考』によれば
象小屋は明の弘治八年(1495)に造られた。象は都に連れてこられると、まず射箭所で訓練された。そのため射箭所は演象所ともいった。また天子の直属部隊(錦衣衛(きんいえい))にも馴象所があり、それが象使いと象を管轄、天子の直属部隊からは一名を監督として任命していた。大式典では車をひかせ、宝物を担う役としていつもすべての象が使われた。一般の式典では6頭の象が使われるのみ。象にも階級があり、それに応じて禄が授けられていた。清になってからも似たようなもので、管轄が天子の直属部隊錦衣衛から名前が鑾儀衛にかわったのみである。

2001/08/01
改稿2011/05/31
都では六月六日に衣類や本の虫干しをする。 この日に虫干しをすると虫が生じないという。
2001/08/01 改稿2011/05/31
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