燕京雑考@ブログ版
中国・北京の歴史、風習を紹介。一日一つを目指します。
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西湖より包頭まで 6 包頭行 -01 京綏鉄道
9月2日午前8時、自動車にて西直門に至り、京綏鉄道の客となる。例により軍属の警戒厳重である。
そもそもこの線は支那が自国人の苦心経営になったもので、
毫末も異国の才を借らず、
計画の当初外人均しく華人の任にたえざるを疑うたものだが、
この通りできあがったので、
「欧美仁氏、遠来膽視、莫不嘖々驚嘆」と自慢するところの
純粋の支那官弁鉄道である。
けだし1896年9月露国がその要求委かかるボドナ北京線を拒絶せられたのにつき、
さらに第二計画として、イルクーツク、キャフタ、クーロンをへて張家口より、北京に達する鉄道の敷設を要求したのが、そもそもこの路線計画の最初である。この申込に対し英国の抗議があり。
やがて支那政府から北京、長城の路線は支那自ら敷設し、外人の資本は借らず、またこれを担保にはしないという契約をしておよそ6年を経過したが、
いよいよ光緒三十一年(明治三十八年六月)に袁世凱の上奏となり、
まず京張間の敷設にとりかかった。
しかるにこの線は北京から南口までの平野は約34マイル、一年にして成功したが、
南口のさき12マイル岔道城までは、いわゆる西山の険峻で始原代の山骨稜々として、山西台地を限り、居庸八達嶺の関門があるところであるから、
なかなかの難工事で山岳重畳渓流縦横の間に居庸関隧道1204尺をはじめ五貴山、石仏寺、八達嶺と四つのトンネルを穿ち勾配は三十分一という急斜あり。あの堅い岩塊を八旧住尺以上も切り取るやら、谷に沿うた築堤高さ60尺にもおよぶものをつくるという次第で、一方ならざる困難を極めた。
しかし技師・詹天佑の経営よろしきを得たため、
1909年2月には京張間145マイル全通ということになった。
しかもその工費850両は京奉鉄道純益金より支弁したのであるから、
支那人がこれを誇るのも無理からぬことである。
ついで支那政府はクーロンへの延長を企てたところ、
張家口から直接北方の庫倫へ出ては、沿道貨物が少ないゆえに
まず長城にそいて大同に出で、それより長城を横ぎって豊鎮をへ、
再び西に向かって綏遠に達し、そこより陰山を越え、
北行ただちに庫倫に達するの利を論ずるものがあって
その説に従い、一九〇九年九月以後工をすすめ、1912年大同、豊鎮に達し、
民国六年になって、さらに日本国東亜興業及び三井などより570万円の借款を起こして、1912年4月綏遠に達した。
ここまで京綏間435マイルの開通を見たが、
その勢いに乗じて綏遠から黄河畔の包頭まで96マイルを1922年に敷設し終わったももである。
参考資料:京綏鉄道
しかし極力工事を急いだために車両の欠乏を来たし
1921年には車両購入その他の資金として米国大康洋行から230万ドル余を借入れたのであるから、前後数100百万ドルの借款を負うているのだ。
しかしこの鉄道は張家口、帰化城、包頭という三大貿易市を連ねているので、
内外蒙古一帯の毛皮畜類、薬剤、藍、曹達、雑穀をはじめ
新疆地方の綿花、葡萄の輸出線となり、
これら地方の日用品碾茶、綿布、砂糖、燐寸、煙草、紙、綢緞、石油、改装など一切の雑貨がこの線によって配給されるのであるから営業成績もわるくない。
現在、張家口は毎年3000万両以上、帰化城は二千五百万両以上、包頭は一千万両以上の貿易が行われているほかに、
沿線の開発に伴う農産物の増加また驚くべきものがある。
元来政治上もしくは軍事上の必要に基づいてつくられた鉄道であったけれども、
敷設した後からこれを見ると蒙古統御の第一義の目的はいうにおよばず、
北地開発上驚くべき成果を収めつつあるので、
昔は長城を築いて消極的に中国の安寧を保護したのが、
今は鉄路一貫積極的に漢人北進の門戸となり、
あわせてその農産物が北京その他糧食となるに至った。
まことに刮目してみるべき状況に変化したのである。
でかように有意義なかつ有利な鉄道であるが、
なにぶんにも車両の不備を早急に改めあたわないので
一、二等などの座席のまずいこと、便所の不潔なことは支那第一ともいうべく、
軍人軍属が威張ってその専用車以外にもくみだすことや、
常人でも三島の切符で二等の席を取り、改札が今に叱っても動かないことや、
軍人の手荷物が馬鹿に多量であるいは普通人の貨物を託送されているのではないかと、不愉快に思われる点がないではないことや、
数えくれば乗心地必ずしもよろしくない。
これは営業成績にも影響しているとのことである。
予は文明の利器を取り扱う支那人が法を重んずるの習慣を得んことを希わざるを得ない。
しかしこの線が包頭よりさらに西にはハミ、カシュガルをへてバグダード鉄道に連なり、
北はクールン、キャフタをへてシベリア鉄道に連接するのは、欧亜の形成に一新時代を来たすであろうと多大の期待を掲げる。
西直門から南口までは農耕の盛んな沖積平原ではあるが、
山に近いから礫が多く、土地もやせているところがある。
沙河・昌平の二駅をすぐれば、南口すなわち居庸関の南口で、
前寒武紀のききたる山岳の上に、長城の前門たる城壁が見える。
墩台が見える。これに烽火があればただちに北京皇城の景山に通ずるのだ。
南口河の沖積地、砂礫磊々たる川原の小高いところに、
この鉄道に付属する南口製造廠があり、50馬力の蒸気機関を据え、車両の修繕をしている。
煙突の煙が遠くから景気よく見える。
駅ができてからの新市街、南口旅館公司というに入る。
時に午前十時。ここより明十三陵の見物に行く。
~>゜)~<蛇足>~~
わかりやすくするため、原文中以下の地名をカタカナ表記に変えました。
伯都納 ボドナ
恰克圖 キャフタ
庫倫 クーロン
哈密 ハミ
喀什噶爾 カシュガル
また イルクックを イルクーツク に変えました。
~>゜)~<蛇足2>~~
参考地図は大同传媒のコラム
[文化]这是一段久远的记忆,它不为人知却真实存在过 より
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戊戌年九月新旧対照カレンダー
使っている絵は、
雍正帝・乾隆帝の時代の宮廷画家・陳枚の『月曼清游図冊』から
『九月「重陽賞菊」』です。
使っている絵は、
雍正帝・乾隆帝の時代の宮廷画家・陳枚の『月曼清游図冊』から
『九月「重陽賞菊」』です。
西湖より包頭まで 5 燕京の二日間 -03 地質調査所
9月1日江浙火ぶたを切った当日、横浜正金銀行に行って両替をすると、100円につき74元だ。
えらく影響したなと思う。
70元には下るだろうとの話であったが、
爾来円価漸落、70元を突破して64元になった。
このことはわれらの後日の行動に支障を来たさしめた一大原因である。
ぐずついてはいけない。明日は早く包頭に向かうと相談一決。
たまたま拓殖大学教授・宮原民平氏が内蒙古より帰京、
我等の隣室に来られたので、さっそく種々事情をきく。
やがて国際観光局に行って綏遠までの切符の周旋を頼む。
午後1時になる。
農商部地質調査所にゆき、屯絹胡同に同所次長・章鴻釗氏の寓居を訪ねる。
けだし士流の居宅の様子を見学した形だ。
上房客室にて種々歓待をうけ、やがて同氏に案内せられて再び調査所に至り陳列室参観。
あらゆる岩石鉱物の標本と、これに懇篤な地質図や説明書がつけてあるのに感心する。
宣昌付近氷磧層、南沱氷磧層などの地質図をはじめ各種の地図類のほかに、
左記のような解説をみる。ちょっと記して参考に供する。
山西河南間、黄河岸三門地方有砂礫層、見於黄土之下、山西平陸縣三門黄土之下三門祖砂礫層、時代當不過初期洪積統以前、三門以下在垣曲縣層、河底地方又有此層剖面如左圖云々。といったような調子で、これを見ると読むといずれも面白い。
出版物の2,3種を買いて辞去する。
~>゜)~<蛇足>~~
1923年9月1日に起きた大事件は、関東大震災です。
その影響で円がかなり暴落したようです。
横浜正金銀行 原文では正金銀行ですが、わかりやすく正式名称に変えました。
西湖より包頭まで 5 燕京の二日間 -02 紫禁城 後編
辞して中央公園に立ち寄り、老柏天に参する森厳な空気の下で中食をすまし、公園の隣の社稷壇に入る。白石壇三層めぐらすに琉璃瓦の垣がある。
東は青、西は白、南は赤、北は黒瓦で畳んである。
青が紫に見え、白がやや黄味を帯び、赤が赭色をなしてはいるが、
窯色めづるに足るもので、壇の北方に社稷の祠があり黄瓦をふいてある。
壇上から皇城の方を見ると、天安門、端門、午門の結構雄大に仰がれる。
ここを出でて紫禁城内に入るべく西華門にゆき、まず武英殿に入る。時に午後2時。
元武英殿聚珍版の活字が貯えてあったところ。
今は国立博古院の監理する陳列館で、康煕・乾隆の全盛時代の御物をはじめ、
天下の美術工芸品の淵叢となっている。
郎窯の紅、均窯の紫、青磁の凉色をはじめ名状しがたい陶器の逸品、
堆朱、印材、竹材、象牙材の技工品をはじめ、硯石、珊貝の妙品に至るまで、
一として至宝ならざるはない。
かくのごとき世界が眼前にあるのに気も遠くなる。
周代の古銅器ごときその美わしい古色に陶酔させられる。
二時間や三時間で出られるところではないが、あまりの立派さに食傷しないうちにと、
ここを出て順路太和門を通って右に体仁閣、左に弘義閣を見つつ正面の太和殿に登る。
門外に金水河が曲線を描いて流れている。
仰げば白大理石の階欄、殿前をめぐること三段、高さ丈余、正面に磴道三つ、
これに前垂石か45枚蛟龍が刻してある。磴道の左右、宝鼎を配置すること十有八、
殿前の広場に銅亀銅鶴格一対、日圭、日嘉がある。
まことに威風堂々たるもので天子賀をうくるの正殿だという。
袁世凱の時これを承運殿と改名したとのこと。
その奥に中和殿、保和殿とほとんど同大の宮殿があって、
も一つ奥に乾清宮があり、満州皇帝の居邸になっている。
保和殿には四庫全書の一が置かれてある。
今これら雄大な聯階の上に立って、
階欄の下はるかに低い廷上の廊廡に群臣百官を置くときの天子の尊厳を思うと、
なるほどこれが宮殿というものだと感じる。
漢高祖が、「今日皇帝となるの貴を知る」と叫んだ長楽宮も
あるいはこんなところであったのであろう。
ここをおりて協和門を出て、文華殿に行く。
武英・文華と相対して太和殿外の左右にあり、
文華殿は東で東華門から入るのが本道である。
もと文淵閣とてしこの一を蔵したところであったが、
今は武英殿とともに陳列所にあてられ、ここで書画の逸品を展覧せしめる。
方琮、仇英、文徴明などの霊筆に見てとれる。
辞して清史館の前を通り東華門を出で、
南池子街を南して正陽門に出で一路南して外城内の天壇にゆく。
ここは天子親しく皇天上帝を祀るところ。
明の永楽十八年の創建で、周囲九里十三歩の磚塀がある。
規模宏大の禁地で驚くべき老柏の野原ともいうべきところである。
まず右手の斎宮に入って、古の楽器を見る。
十六律の黄鐘および玉磬、十八の方響(鉄)の立派なのに驚く。
祭器楽器数多きものの中に敔とて虎形の背に木片数十をつけたのが珍しい。
ここより歩して林野の間を過ぎ天壇に達する。
その圜丘は天にかたどって白大理石算段に築き上げてある。
各段五尺余の高さがあり、径二十一丈に達する。壇をめぐって二重の垣がある。
壇下に五つの鉄篝があり犠牲を焼く竈も見える。
圜丘の北の成貞門を出ると皇穹宇と名づくる祠堂があるが入れてくれない。
皇穹宇から後方の大通りを北に行くこと一支里にして祈年門がある。
祈年殿の入り口である。
殿は正月上辛天子年を祈るところ。
光緒二十三年の再建として碧琉璃にて葺いた円形の三層楼がまだ新しい。
殿内仰いで柱組みや丹碧の傅彩を見る。
壮麗実に天壇第一の偉観である。
ここを出て先農壇にゆく、嘉靖年代の創建である。
周囲六里の長垣をめぐらし中に太歳殿、神祇壇、観耕台などがある。
今は城南公園と化し、太歳殿は警察部が宿所とし、観耕台は茶店となり、
籍田の跡まったく荒れてテニスコートに化し、
天神および地祇を祀った石造の龕、むなしく雑草の中にうずもれ、
方壇まさに崩れんとするの状、まことに遊子の失望に値する。
かずこれで見物日程の第一日を終わったことにして帰る。
夜に入ってさらに中央公園の夜景を見、転じて城南公園に遊ぶ。
いやに殺風景なところだ。
十一時帰宿。
~>゜)~<蛇足>~~
「大和殿」、先農壇の「大歳殿」を「太和殿」、「太歳殿」に変更しました。
太和殿前の「日晷、嘉量」はオリジナルでは「日圭、日嘉」になっています。
参考までに
日晷(にっき)は日時計、嘉量(かりょう)は度量衡の標準器です。
手元の『紫禁城』の写真集(1987)からの参考写真です。
~>゜)~<蛇足2>~~
天壇の祈年殿について「壮麗実に天壇第一の偉観である。」と書きながら、
挿入写真が、祈年殿内部...。何と言いましょうか....。
~>゜)~<蛇足2>~~
北京は乾燥しているイメージが強いのですが、
場所によっては緑が多く存在します。
昔、「孔子廟に野生のフクロウがいる」と新聞で読んだことがあります。
いまでもいるのでしょうか?
西湖より包頭まで 5 燕京の二日間 -02 紫禁城 前編
8月31日午前7時起床。
まもなく隣の三菱公司におられる山本農学士の来訪あり。
正定、無極、寧晋、邯鄲付近の棉作指導の談話を聞く。
午前9時半旅宿の案内人を雇いて
まず北海を見物せんとて、馬車に乗り三条胡同を西して皇城繚牆に達し
これにそいて北、東安門を入って紫禁城の濠の外なる北池子を北に通り、
さらに濠に沿いて皇居の北、神武門前を横ぎる。
この門内に宣統帝がおられるとのこと。
ここをずっと通って承光門に達し、団城を左に見て、門照を衛士に渡し、
「関翠」と題せる牌楼をすぎ、碧橋を渡って、瓊華島に入る。
ここでまず見物としての第一歩を踏んだことになる。
この島は艮嶽に擬してつくられたものだとのことで、
奇岩怪石これを蔽うに蒼々とした樹木を似せてるところ、
橋の北詰に堆雲という牌楼がある。
ここを北進すると永安寺で殿堂の後ろに乾隆の二碑がある。
漢梵蒙満の四体の書で、一方に山の由来、一方に『白塔山総記』が記してある。
さらにこの両碑から石階を上ると白塔山である。
正覚殿内に祀られてある喇嘛仏を拝し、その殿上より北京を大観すれば、
旧皇城は言に及ばず、総督府、国務院すべて一眸の中にあって鬱蒼たる森林の都、
ここかしこに宏大なる建築物の甍の光、
黄瓦、緑瓦、紅瓦、黒瓦とりどりに相調和して
悠久の大都たるの感ことにふかい。
森の都といわんよりは琉璃の都と呼ぶのがよい。
ことに手近な行宮万仏楼の黄瓦碧瓦の取り組み、
北海をへだてて夢のごとくに浮かび出たるは、なんともいえぬよい景色である。
殿後の白塔は入ることができない。
白大理石で積み上げられた宝珠塔に、秋草秀たるがあわれと思うほどに、
鳩が一羽去来したのも時にとっての風情であった。
ここより歩んで池辺の碧照楼に下る途中、珍奇な庭石の中のトンネルを過ぎ、
楼後の漪瀾堂に出る。
楼は海に面して東に有延楼西に綺晴楼の回廊がある。
結構の美、水陸の映発、とても我国宮島の比でない。
堂に題して「湖天浮玉」とあるのも誠なりと思われる。
何にしても文字の国だけに島の名前、楼の額、いずれもこったものだ。
あるいは琳光、あるいは甘露と名づけ、あるいは水精という。
瓊華春陰、徘徊去らしめずという趣である。
楼より船に賃して蓮湖の中から顧みれば、
左に景山あり、右に御河橋のアーチあり、
階上高く「遠帆閣」と題せる碧照楼の結構を中心にして、
双翼の回廊が水に浮かべる様子は、天然の勝と人工の美を兼ね備えた有様、
一行ただ陶然として酔えるがごとくである。
やがて船は五龍亭につく。
湖によって五つの亭があり結構また数奇を極めている。
石橋を歩みて「震旦春林」と題せる仏寺に入ると、
堂の中に極楽世界の模型がある。
須弥山を形どったもので下界から上に登れる仕組み。
堂もしたがって宏壮であるが修繕中で登らさぬ。
「妙境荘厳」、「安養示諦」などいう牌楼がある。
ここを出て湖にそいて明代後王室の帰依ふかき大慈真如宝殿にゆく。
天王門の四天王は目下仏師の手で塗りかえられている。
宝殿は白木作り、中央の三尊仏は鋳銅で立派な製作品である。
この堂の奥にも一つ八角堂がある。
龕中には仏像はないがその台座石の四方に精密な彫刻の仏画がある。
この堂のも一つ奥に鉄骨で石と煉瓦と土とのみでできた建築物がある。
琉璃瓦で極めて美わしく化粧してあって堂々たる殿堂であるが、
今は半ば破れている。
辞して楽静園外で九龍壁というものを見る。
これは驚くべき窯工の精技である。
~>゜)~<蛇足>~~
わかりやすくするため、変更したのは以下の通りです。
本文中の
「団城」 オリジナルでは「団殿」
「九龍壁」 オリジナルでは「九龍牌」
~>゜)~<蛇足2>~~
本文中の「この門内に宣統帝がおられるとのこと。」
そうなんですねこの時代、まだ宣統帝は紫禁城の一角に暮らしていたのです。
~>゜)~<蛇足3>~~
北京は好きなので、あちらこちら解説をつけたくなるのですが、
今回は文章の紹介を続けます。
機会を見て、解説をつけたいと思っています。