燕京雑考@ブログ版
中国・北京の歴史、風習を紹介。一日一つを目指します。
×
[PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。
夏の氷
中国において夏、氷を使用する歴史は古く、清朝においても冬の間に氷を保存しておくのはひとつの決まりでした。
明の時代では立夏の日に大臣へのご下賜があったといいます。また清の時代には三伏の始まり初伏から立秋の間に役人たちに氷のご下賜があり、チケット制で氷を受け取ったそうです。もちろん階級によりその量は違いました。
冬の間に保存された氷は、大きな塊は商店に降ろされ、小さなものは町を売り歩く小商いに卸されました。氷売りは銅の杯を二つ合わせて鳴らしながら歩 き、氷を買ったそうです。子供たちも小さな氷のかけらを買い求め口に含んでしばし暑さをしのぎました。
冬、北海、什刹海(シィチャァハイ)で氷をとり、近くの氷倉で貯蔵したといいます。かつては什刹海の近くで冷たい空気が流れているところがあり、 それを感じることができたそうです。そしてその奥には氷倉の入り口があったのだそうです。
中国において夏、氷を使用する歴史は古く、清朝においても冬の間に氷を保存しておくのはひとつの決まりでした。
明の時代では立夏の日に大臣へのご下賜があったといいます。また清の時代には三伏の始まり初伏から立秋の間に役人たちに氷のご下賜があり、チケット制で氷を受け取ったそうです。もちろん階級によりその量は違いました。
冬の間に保存された氷は、大きな塊は商店に降ろされ、小さなものは町を売り歩く小商いに卸されました。氷売りは銅の杯を二つ合わせて鳴らしながら歩 き、氷を買ったそうです。子供たちも小さな氷のかけらを買い求め口に含んでしばし暑さをしのぎました。
冬、北海、什刹海(シィチャァハイ)で氷をとり、近くの氷倉で貯蔵したといいます。かつては什刹海の近くで冷たい空気が流れているところがあり、 それを感じることができたそうです。そしてその奥には氷倉の入り口があったのだそうです。
PR
頭伏餃子、二伏麺、三伏烙餅攤鶏蛋
日本では夏、土用の丑の日にうなぎを食べる習慣がありますが、北京では一年で一番暑い時期の「三伏」には「頭伏餃子、二伏麺、三伏烙餅攤鶏蛋」といい、三伏の最初の初伏(ここでは頭伏)に餃子、中伏(ここでは二伏)には麺、末伏(三伏)には卵入りの烙餅という中華風クレープはを食べます。
暑いのに、なぜ餃子に、麺か...。(ちなみに北京ではゆでた餃子「水餃」が一般的です)。この時期はちょうど小麦の収穫期で、新しい小麦が手に入ります。体から大汗をかいて、初物を食べて邪気を払うという意味合いがあるようです。
末伏には中華風クレープの烙餅を食べますが、このころになると、ようやく炊事も楽になってくるので、家で、卵入りの烙餅を焼いて食べます。
日本の暑気払いに比べて質素ですが、お肉などは”上火”、漢方医学でいうところの”のぼせ”の状態になり体調を崩しやすくなるので、夏の暑い時期には避けるようです。
この言葉ですが、以前、「初伏、餃子、中伏、麺、末伏、烙餅炒鶏蛋」だと思っていました。北京の人にそう教えてもらったのですが、私の記憶違いでしょうね... (^^ゞ。
ちなみに今年2012年の三伏の日程は
です。
参考
→三伏
日本では夏、土用の丑の日にうなぎを食べる習慣がありますが、北京では一年で一番暑い時期の「三伏」には「頭伏餃子、二伏麺、三伏烙餅攤鶏蛋」といい、三伏の最初の初伏(ここでは頭伏)に餃子、中伏(ここでは二伏)には麺、末伏(三伏)には卵入りの烙餅という中華風クレープはを食べます。
暑いのに、なぜ餃子に、麺か...。(ちなみに北京ではゆでた餃子「水餃」が一般的です)。この時期はちょうど小麦の収穫期で、新しい小麦が手に入ります。体から大汗をかいて、初物を食べて邪気を払うという意味合いがあるようです。
末伏には中華風クレープの烙餅を食べますが、このころになると、ようやく炊事も楽になってくるので、家で、卵入りの烙餅を焼いて食べます。
日本の暑気払いに比べて質素ですが、お肉などは”上火”、漢方医学でいうところの”のぼせ”の状態になり体調を崩しやすくなるので、夏の暑い時期には避けるようです。
この言葉ですが、以前、「初伏、餃子、中伏、麺、末伏、烙餅炒鶏蛋」だと思っていました。北京の人にそう教えてもらったのですが、私の記憶違いでしょうね... (^^ゞ。
ちなみに今年2012年の三伏の日程は
初伏:7月18日-7月27日
中伏:7月28日-8月6日
末伏:8月7日-8月16日
です。
参考
→三伏
「龍兵が配備につく日」(燕京歳時記)
五月二十三日を都では「龍兵が配備につく日(分龍兵)」という。五月から都では大雨がふる。それも轍の間隔の違いぐらいで雨が降ったりふらなかったり。だから人々は、雨の神が手下の龍兵を各地に配置してそれぞれに指令を出して雨を降らせているに違いないと思っていた。
宋の陸佃の『雅(ひが)』には、
「分龍」すなわち龍の配属ということばは宋の時代にすでにあった。日にちは違っていたが。宋代では四月二十日が小分龍で五月二十日が大分龍と言われていた。この日快晴ならその年は日照の年で、大雨なら大水の年だと言われていた。
五月二十三日を都では「龍兵が配備につく日(分龍兵)」という。五月から都では大雨がふる。それも轍の間隔の違いぐらいで雨が降ったりふらなかったり。だから人々は、雨の神が手下の龍兵を各地に配置してそれぞれに指令を出して雨を降らせているに違いないと思っていた。
宋の陸佃の『雅(ひが)』には、
俗に世間では五月を分龍といい、五月に降る雨を隔轍雨という。夏の雨はにわかにやってくる。雨を降らす龍にはそれぞれ分担があり、雨が降る場所と降らない場所のちがいは轍を隔てるほどのものであるという、そう言った意味である。と書かれている。
「分龍」すなわち龍の配属ということばは宋の時代にすでにあった。日にちは違っていたが。宋代では四月二十日が小分龍で五月二十日が大分龍と言われていた。この日快晴ならその年は日照の年で、大雨なら大水の年だと言われていた。