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燕京雑考@ブログ版
中国・北京の歴史、風習を紹介。一日一つを目指します。
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文人の描いた旧都・北京 芥川龍之介 『雑信一束』より
十四 前門


僕--おや、飛行機が飛んでいる。存外君はハイカラだね?
北京--どう致しまして。ちょっとこの前門(チェンメン)をご覧ください。

大正十年(1921年)


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この文章がかかれたころには、前門のあたりでも飛んでいる飛行機が見られたのでしょうね。
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芥川龍之介 (1892-1927:)この文章は、龍之介が大阪毎日新聞社の依頼により大正十年(1921年・中華民国十年)3月下旬から七月上旬まで中国を旅したときの絵葉書に記した訪問地の感想をまとめたもの。


テキストは:
「上海游記・江南游記」
講談社文芸文庫
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文人の描いた旧都・北京 芥川龍之介 『雑信一束』より
十三 北京


甍の黄色い紫禁城を繞った合歓や槐の大森林、--誰だ、この森林を都会だなどと言うのは?


大正十年(1921年)


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かつて北京はとても緑に恵まれた土地だったそうです。
この文章を読んで、この時期... 民国十年ごろはまだそうだったのだろうな... とおもいました。
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芥川龍之介 (1892-1927:)この文章は、龍之介が大阪毎日新聞社の依頼により大正十年(1921年・中華民国十年)3月下旬から七月上旬まで中国を旅したときの絵葉書に記した訪問地の感想をまとめたもの。


テキストは:
「上海游記・江南游記」
講談社文芸文庫
文人の描いた旧都・北京 鄭振鋒 『北平』より
柳絮


…前略…

そよ風が吹くと、あたり一面の白い柳絮がくるくると転がり、次第に球状をなし、壁の隅に押しやられる。まだ空いっぱいに舞う綿のような小さな塊は、しばしばあなたの顔にへばりつき、鼻の穴を無理やり塞いでしまう。

…後略…

1934年11月3日


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どこかに柳絮について書いたものがないかと、本を繰っていたところ鄭振鋒の「北平」という文章の中に本の少しですが、触れられていました。「中学生」という雑誌に載せられた文章で、北京の四季を中心に名勝などが書かれています。

柳絮についてはたったこれだけ触れられているだけで、ちょっと不満が残るのですが、出だしには「春北京にやってきたら…」黄砂の出迎えを受けることが書かれていて、とても面白いです。黄砂についての部分は、また別途ご紹介します。


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鄭振鋒 (1898-1958): 福建省出身の作家、文学者。学生時代に五四運動に参加。瞿秋白らと「新社会」を創刊。文学研究会を主宰したり、商務印書館で編集に携わる。1931年からに北京大学などで教鞭をとるかたわら、研究にもいそしむ。著書に、「挿画本中国文学史」、「中国俗文学史」など

テキストは:
「北京乎・現代作家筆下的北京(1919-1949)」
三聯書店
文人の描いた旧都・北京 陳独秀 『北京十大特色」』より
北京はこんな都市


一人の友達がヨーロッパから戻り、北京にはヨーロッパ各国には見られないこういった十の特別な部分があると話してくれた。
1.戒厳のときでなくても街中には銃を持った警官が溢れ市民を威嚇している。

2.一本のとてもよい新華街といった通りが、城壁までで行き止まり。

3.自動車がとても狭い通りで人ごみにぶつかったとしても、警官はそれを止めようとはしない。

4.位の高い軍人が馬にも乗らず、自動車に乗って敵前に向うかのごとく走っている。

5.十二、三才の子供や、六十数才の老人が通りで人力車を引いているが、警察はそのことに口を挟まない。

6.風が吹き砂埃が空を蔽っても、人力で水をまくだけで、給水車を使う事はない。

7.城内城外のほとんどは車が通れる路だが、主要道だる前門橋だけは高さが安定しない石敷きの道だ。

8.「公園」と名前が付いているのに、入場券を買わなければ入場できない。

9.総統府の前や軍司令部の前が通行禁止になっている。

10.安定門外の糞溜の臭さは、天下一だ。

1919年6月1日


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1919年に書かれた文章。ということは五四運動の直後で、北京の十の欠点を書き連ねています。

時代がよくわかります。

10番目には笑ってしまいましたが、ちなみに安定門は、かつてし尿の運び出しがなされていた門です。


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陳独秀 (1880-1942): 中国近代史上とても重要な人なので、ご存知の方も多いと思います。あちこちに紹介されていますので、詳しくは、中国史関係の資料をご参照ください。有名な著作に「独秀文存」、「文義類例」、「実庵自伝」など。

テキストは:
「北京乎・現代作家筆下的北京(1919-1949)」
三聯書店

文人の描いた旧都・北京 彭子岡 『北平歳寒図」』より
北京在住の日本人


日本人は北平においても活気溢れている。金持ちはお上の後ろに集まり、貧しいものは法令下なんとか先進的な位置にへばりついているいるといったように。
東城のある胡同では、たくさんの着飾った日本人子女が見受けられる。また東安市場の日本人の購買力は特筆するに値する。

そして、日本人の中国恋慕の根幹は、北平にあるようだ。

河北省政府が「新生活運動」を繰り広げるなか、特に注意したのが生活の日本式の生活をいかに排除するかということであった。しかし弁当を携えること、冬にマスクをかけることなど排除できないことがある。

194?年冬


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はっきりと何年と書かれていないので、前後の文章から何年なのか後ほど考証したいと思います。

かつて北京にはたくさんの日本人が住んでいたといいます。特に東城区に多かったようで、私も何度か東城区のあたりをご案内したことがあります。

この文章から見るに、マスクは日本から中国に行ったのでしょうか。お弁当などやはり中国の人たちにも便利だったのでしょうね。


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彭子岡 (1914-1988): ジャーナリスト、作家。

テキストは:
「北京乎・現代作家筆下的北京(1919-1949)」
三聯書店
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