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燕京雑考@ブログ版
中国・北京の歴史、風習を紹介。一日一つを目指します。
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「開印(御用始め)」(燕京歳時記)


開印(御用始め)の期日は、大体十九、二十、二十一日の三日間だが、天文管轄の部門の欽天監が吉日吉時を定め、期日が通知される。
この日には官吏は礼服を着て儀式を行う。

開印の後は、通常業務が行われる。


注釈:
仕事納めは「封印」といわれる。その封印を開けることから御用始めは「開印」となります。
「封印」というと、中国では現在も、重要な箇所を占める場合「封印」がなされます。そのとき、しっかり印が押されているのが印象的です。
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花市は崇文門外から東にかけて開かれる。正月から毎月四日、十四日、二十四市に市が立つ。市にでるのは日用品だ。花市とは、女性が髪に挿す紙で作られた花のことで、季節の花のことではない。この造花にはいろいろな種類のかんざしがあるが、どれも生花とようだ。ここでは花市のほか鳩市も立つが、これは市の店の北のほうの横丁にある。

『居易録』には、
都の花市で黄色い鳩が二羽売っていた。羽は黄金色でその値段はとても高かった云々
とかかれている。

都には鳩を飼う人がかなり多く、鳩の種類もとても多い。
特徴あるものでは、点子、鳳頭鳥、小灰、皂児、紫醤、雪花、銀尾子、四塊玉、喜鵲花、跟頭花、脖子、道士帽、倒挿児などがある。
珍しいものでは短嘴、白鷺鷥、白烏牛、鉄牛、青毛、鶴秀、蟾眼灰、七星、鳬背、胴背、麻背、銀楞、麒麟、斑躧、雲盤、藍盤、鸚嘴、白鸚嘴點子、紫烏、紫點子、紫玉翅、烏頭、鉄翅、玉環などがある。鳩を放つときには必ず竹の呼子笛を尾羽につけるが、これは壷盧、哨子と呼ばれるものだ。大きさはさまざまで、三連、五連、十三星、十一眼、双筩、截口、衆星捧月などの種類がある。鳩が空を旋回するとき音は空多角響き渡り、たくさんの音が耳を楽しませてくれる。先人が架鴿とよんだ、棒の上に鳩を止まらせたものは今では見かけなくなってしまった。

『余氏辧林』には
都では孟春の頃、子供たちが布地を切って花や草や虫などを作って頭にさしているが、これらを閙嚷嚷(大騒ぎ)といったが、昔で言う仮装遊びのことだ。
と書いてある。これらが綾絹などで作った花簪の始まりだ。

「筵九(正月十九日)」(燕京歳時記)

十九日を「筵九」という。
この日は皇帝が中海の紫光殿に行幸、饗宴を催し、出し物や相撲をご覧になる。
蒙古王公はこの日、帰郷の申し出をする。
臣下で貂裘の毛皮の着用が許可されている人たちはこの日これを脱ぎ、白狐の毛を裏張りにした上着を着用する。

民間では特に記すべきものはないが、白雲観におまいりに行く。
これを「神仙に会う」といっている。
『帝都景物略』には
「この日を燕九ともいい宴邱とも言う」」
と書かれている。
現在は筵九といっているが、発音すると似ているちどれも似ているので、どれが正しいのかわからない。
「提灯祭り(提灯の節句)」(燕京歳時記)

十三日から十七日までの間を提灯祭り(提灯の節句)といい、十五日は正灯という。毎年提灯祭りには、宮廷では饗宴が開かれ、花火が挙げられ、街には提灯が下げられる。大通りの提灯飾りは、東四牌楼と地安門が一番華やかだ。工部、兵部の通りがこれに次ぐが、他の提灯はこれらに及ばないが、東安門の新街口、西四牌楼のものは見るに足るもがある。(兵部の提灯は光緒九年に閻敬銘により禁止となった)

様々な提灯は、薄絹、ガラス、板膠で作られ、古今の物語が描かれていて目を楽しませてくれる。器用な街の人は、氷で器を作ったり、麦の苗で人形を作ったりしている。華麗だが派手ではなく、素朴だが野暮ではなく、見るに値する。

花火を売る屋台では各種の花火を製造し、巧を競い、奇を争っている。花火には箱から挙げるもの、花器から花が咲くようなもの、竿につけた花火、牡丹や蓮、月が落ちるさま、ぶどう棚を表したものや、連発式の花火など色々な種類があり、これらを金持ち、夜権力のある家が競い合うように買い求める。花火は火の樹木に銀の花が咲いたようで、その光は人を照らしている。道行く車馬は騒がしく、笙の音やら歌声も喧しい。これが白昼から夜10時に至るまで続くのだ。夜10時ごろには、花火も落ち着き始め、人影は地に落ち、明月が空に現れ、人々は笑い興じながらそれぞれに去っていく。

市では、様々な食べ物が売られているが、元宵が多く見られる。これがこの季節の風物ともいえる。また金魚を売る姿も見られる。ガラス瓶に金魚をいれ、その影を動かしている。大きさが変わって見える。これは他の場所では見られない。

『日下旧聞考』によれば、
明代の提灯祭りは、東華門王府街の東と崇文街の西まで、二里にわたり、その南北に店が出た。すなわち今の灯市口である。提灯市の日には珠玉から日用の小さなものまで、あらゆるものが売られていた。店は規則正しく、碁盤目状に並んでいたが、向かい合って二階建ての店があった。そこには毛氈が敷かれ、簾幕がかけられており、宴席が設けられるようになっていが、一日あたりの料金は数百緡(びん)で、貴族など金持ちが借りた。提灯は、ガラス、ガラス糸、紗、膠板などなどがあった。音楽も鳴り響き、雑技が演じられた。花火は棚や、箱に仕掛けてあるもの、葡萄棚、真珠簾などといったものがあった。一月八日が初日で、十八日まで催された。
つまり期間は現在のように五日間ではなく、当時は十日間だったということだ。色々なものがあつまる市ということについては、当時は提灯と市が一緒だったが、現在では、提灯は内城に、市は外城の琉璃廠でわかれて催されるようになったということだ。

「春打ち (立春)」(燕京歳時記)

立春を「春打ち」という。ちなみに立春は、一月にあることが多い。立春の前日、北京地方を治める順天府の官吏たちが東直門から一里離れたところに設けられた「春場」に出向いて春を迎える。立春当日は、礼部の官吏は春山宝座という春の山の形をした玉座を作って皇帝に進呈する。順天府からは春牛図が進呈される。この儀式が終わると官吏たちは役所に戻り、春牛を引き出し、鞭で打つ。これが春打ちである。

この日、金持ちの家では春餅を食べる。女性や子供たちは大根を買って食べるが、これを「春を咬む」といい、こうすると春の眠気を追いやることが出来ると言われている。

『礼部則例』には、次のようなことが記されている。

立春の一日前、順天府の長官は配下の官吏を従えて、官吏の礼服を着用、東直門外において「春」を迎える。配下が春の神・勾芒神と土で作った牛(土牛)を担いで、鳴り物を先頭に役所の前に来て、美しい色とりどりの布をめぐらした小屋の帳の中に安置する。立春の当日には、大興、宛平の二つの県の 知事が机を午門の外の正面中央に設けて、恭しく皇帝、皇太后、皇后に勾芒神と土牛を進奉し、春山宝座もそれに添える。順天府 の学校、大興県、宛平県の学校の学生らがこれを担ぎ、礼部の管理が先導して、後ろには尚書省次官、順天府長官と次官が随い、午門の中央の門から入り、乾清門、慈寧門に来て、恭しく献上する。そこからは宦官が取り次ぎ奏上される。儀式が終わると皆退出するが、そのとき順天府長官が土牛を出し、これを鞭打つが、これには勸農の意味がある。また『湧幢小品』には、明の正統年間に、毎年立春に、順天府は春の牛、春の花を作り、皇帝と仁寿宮に献上するものと、あわせて祭壇が三基つくる。それぞれ金銀玉翠などで飾られ、九万以上の費用がかかった。皇帝の即位があると次の年には三基増やされる。あまりの負担に宛平の民衆が陳訴をし、花が代わりに用いられたこともあった。
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