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燕京雑考@ブログ版
中国・北京の歴史、風習を紹介。一日一つを目指します。
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「北頂と東頂」(燕京歳時記)

北頂の碧霞元君廟は徳勝門の外、元の土城の北東1.5kmほどのところにある。毎年四月の縁日に市が出て、日用品や農具類が商われる。参詣に訪れるのも田舎の人が多い。

東頂は東直門外にあるが北頂と同じようなものだ。

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「ヤーシー山」(燕京歳時記)

ヤーシー山碧霞元君(へきかげんくん)廟は都の北東、懐柔県との境にある。毎年四月に一日から半月の縁日があり、賑わいは妙峰山に敵わないが、風景は勝っている。都の人はここを東山と呼んでいる。

「妙峯山(みょうほうさん)」(燕京歳時記)

妙峯山碧霞元君廟は北京から北西に40km、山道を20km、あわせて60kmほど行く。そこは昌平に属している。

毎年四月一日から半月間の縁日には焼香する人たちの列が絶えない。縁日前に降る雨は「浄山雨(じょうさんう)」山を清める雨と呼ばれている。

廟は高くそびえる萬山の山中にあり、らせん状に登って行く。前を行く人は後ろから来る人の頭を踏みつけそうだし、後ろを行く人は前を行く人の足が見えるといった様子だ。

この期間の始めから終わりまで、昼夜を問うことなく人の行き来が途絶えることはなく、焼香の煙が絶えることはない。珍しい光景である。

廟は南向きで、山門、正殿、後殿がある。後殿の前には石の突起があるが、これは妙峰山の山頂の石だと思われる。そして100年を超えていそうな柏の古木が3、4本ある。廟の東には、喜神殿、観音殿、伏魔殿、そして北側には回香亭がある。廟の中には石碑がないので、廟の起源は知ることができない。また残念ながらこれを記述したものがないのだが、雍正、乾隆年間(1723-1795)ごろからあったと思われる。

参道は、日を追うごとに整えられ、いくつもの道がある。南道というのは三家店からでていて、中道は大覚寺から、北道は北安合からの参道だ。旧北道は石仏殿から出ている。この中で最近一番にぎわっているのは北安合からの北道だ。人の多く、馬車もにぎやかに通っている。夜のともし火は星の数ほどだ。それぞれの参道を合わせると参詣者は数10万を数え、商いも数10万文にのぼる。焼香の火が盛んに燃えるさまはまさに天下一だ。

「結縁豆(けちえんまめ」(燕京歳時記)

四月八日、都の善男善女は、緑や黄色の豆を数升買い求め、仏の名前を唱えながらこれをつまむ。
そしてそのつまみ上げた豆を煮て人々に分け与えるのだが、この豆を結縁豆という。
来世の縁を結ぶ豆ということだ。

『日下舊聞考』によれば、
都で念仏を唱える僧侶は、唱えた数をまめで数える。
そして四月八日、釈尊誕生の日、辰の刻(朝7時~9時ごろ)にこれを煮て道行く人に分け与え、縁を結ぶという。
今に尚、この習慣は伝えられている。

「西頂(シーディン)」(燕京歳時記)

「西頂」(燕京歳時記)

西頂の娘娘廟(にゃんにゃんびょう)は、万寿寺から西へ4、5kmほど行ったところにある。毎年四月一日から半月の縁日があり、万寿寺と同様ににぎわう。
山門には厳つい表情の生きているかのような四天王像が祭られている。
台座の下の邪鬼像はこれまた恐ろしい表情で、子供を連れた人たちは子供の目を覆い通りすぎている。
廟内には72の祠があるが、そこに祭られている神々はすべて絵で、像ではない。
毎年の縁日には大臣が派遣され、焼香をするが、これはヤーシー山の娘娘廟とここの娘娘廟だけのことである。

『日下舊聞考』によれば、
西頂の碧霞元君(へきかげんくん)廟(娘娘廟のこと)は都の西、藍靛廠(らんてんしょう)(明の藍を作る工場の跡地)の前にあり、明の万暦(1573-1620)年間に建てられた。清の康煕五十一年(1786)修復され、広仁宮と名前が変わった。
とある。

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