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燕京雑考@ブログ版
中国・北京の歴史、風習を紹介。一日一つを目指します。
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西湖より包頭まで 6  包頭行 -03 居庸関

 9月3日朝5時魁氏に起こされる。
ここから居庸の四重の関を驢馬にて突破するのだから、ちと早起きを余儀なくされたのだ。
旅館を出て鉄道線路を西に横断し、南口河の河原の上をゆく、
暁風楚々気持ちがよい。

 『水経註』に
「其水南流歴故関下、渓之東岸有石室三層、其戸牖扇悉石也。蓋故関之候台矣。南即絶谷、累石為関垣、崇墉峻壁、非軽功可挙。山岫層深、側道褊狭。」
とあるから、
西暦5世紀すでにここに山から山へかけて塁壁のあったのはたしかである。

 この文中に古関と称するほどであるから、けだしよほど古い時代からのもので、
秦始皇がつくらしめた『呂氏春秋』にも、天下の九塞を挙げて居庸を記しており、
『淮南子』の「九塞」にも出ているから、この北方に通ずる関署はあるいは燕代にすでに設けられたにちがいない。

 明代京師防備の第一線として古北口、居庸、紫荊の三つを特に重要視したのであるが、
元の大軍の勇猛をもってしても、金人のここを守るとき抜くことはあたわず、
嘉定二年には紫荊関から涿易二州に下り、それからこの南口に攻めて来たといい、
あるいはこの関所の東の松林の中の間道、わずかに一人しか通れないところを、元の太祖が通って南口に出て攻め上ったという伝説があり、
まことに天下の要塞燕王のいわゆる北平の噤喉であるから、永楽以後常に衛を置いたところである。

 さてこの関所にはこの南口と八達嶺にある長城の関門すなわち北口とがあって、その南北二口の間に居庸関と上関があるから、合わせて居庸四関という。換言すれば長城の内側に三重の関所をつくり、各山から山へ取り巻いた定石をもっているのである。
 南口の河原からこの左の山手の塁壁と、右の山手の墩台との間を進んでまず最初の城壁関門に達する。
この門を入ると古の南口市街で街並みの揃った20戸ほどの民家がある。
道路はすべて石畳であったのが、今はあれている。
『明史』の記すところにしたがえば、「南口城は洪武二年大将軍徐達の築くところ」とあるから『水経註』の作者の見た石塁ではないのであろう。

 南口からさらに5支里をすすむと再び前面の山から山、谷から谷へ城壁が委蛇たるを見る。
これすなわち有名な居庸関で入口に穹門が二つ、一を通って右に曲がって第二門に入るとこれに「居庸関」と題してある。
穹門破れて危険だから、新道が外側を迂回してつけてある。
この門から行くこと1町にして道の中ほどに高3丈1尺の白大理石の穹門、道幅2丈4尺がある。
 これは雲台または過街塔と称せらるるもので、元武宗が太后の寿福を祝して建てた塔で、
洞壁に釈迦像、金剛像などをはじめ、仏画やら漢、梵、蒙、回紇、女真の五体で呪文が刻してある。
洞道の両口にインドのガルタ像がほってある、彫刻の精巧真に驚くべきものがあるが、頂上の塔は今は烏有に帰し、道下の白大理石の敷石には風雨千年車軌の通った幅三寸深さ三寸ほどの轍跡がついていて、そぞろに懐古の情を呼ぶものがある。

 茶店にてしばし休息してさらに進めば、街を離るるところにまた二つの穹門があって、また外方に「居庸関」と題してある。
この関をさると先カンブリア時代の片岩に代わるに花崗岩の噴出地となるから、
風蝕の結果両岸は秀峰壘起してまことに風景の妙を極める。
道路は荒れに荒れてまるで渓流である。
8支里を行くと第三の関門がある。
これを上関というが、その外方に「居庸外関」と記してある。
上関からさきは途いよいよ急に、渓谷ますます蹙まる。
谷に添うた旧道まったく破れて弾琴峡の方へ行けない。
しかたなくここで左方の山道を越える。
峠の下に五貴山隧道があるのだ。
この峠を越えて溪畔に出ると路傍に大きな岩がある。
これに二大字を題して「仙枕」とある。一大花崗岩である。
呂賁の隷書で非常に立派な字であるが、なおこの石には大行散人の詩、陽和の凱旋記などがほってある。
よく見るとこのあたりの路傍の花崗岩の少なく大なるものや断崖のところどころに種々の文書が刻してある。
いずれも能筆である。

 石くれだった峡道をすすむと途中で奥地から馬群数10匹を率いた一隊に出会うこと2度、牛群にあうこと1度、いずれも手綱をかけていない。
2名ほどの牧夫の命に従って歩んでくる有様まことに温順なものだ。
馬を追うにはオウ、オウといい、牛にはチョツ、チョツと掛声している。
日本では馬にはドウ、ドウ、牛にはチョイ、チョイという。
なんだか似ているのも可笑しい。
やがて上関から17支里青龍橋村に達する。
これは北口の宿駅で、嶮崖によって作られた一山村であるが、
駅は右方の山腹に設けられている。
比較的豊かな住宅の2、3を見受けた。
 この村からいよいよ八達嶺へ登るには、花崗岩の山道をおよそ3支里すすむのであるが、磊塊たる嶮坂である。
驢馬なればこそよくも登るものだと思う。
荒れた道を何度となく切りひらいたのであるからその切り下げた崖段が三つまでものこっている。すべり落ちたら大変だ。
ようやくにして八達嶺の関門に達する。
ここにも内外二重の門があって外門に「北門鎖鑰」の四大字がある。
まことにこれぞ華夷を限るの天嶮で有名な万里頂上に達したのである。



~>゜)~<蛇足>~~
 わかりやすくするため、原文中以下を変えました。
 前寒武紀 → 先カンブリア時代
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西湖より包頭まで 6  包頭行 -02 明の十三帝陵


 この旅館は我等が北支那にきて、はじめての支那宿だ。
一行に魁氏という50歳位な通訳をつれているのでこういう宿に入るのに都合がよい。
室は白壁で汚れもなく、鉄製の寝台があり、一人一室八畳敷位でなかなか気が利いている。
食事もオムレツ風のものや、肉の煮き合わせなどがあって不味くない。
ここで驢馬を雇う。蘇州の市場を思い出すが、鈴をかけていないのが淋しい。
12時に出発して途を東北にとる。
白河の上流がある。ここでは玉河という。
急峻な西山からにわかに平原に出るので非常な荒れ河で、
礫磧の河原がはなはだ広い。
旅宿のあるところもその河原の一部である。
一支里ほどをくると細流がある。
ここを横断すると高15メートルの断崖で、その上部は平坦な黄土の台地である。

 このあたりでは黄土は必ずしも風積物たるの証を示さず、2、3尺の黄土層の、上にも下にも礫層がある。
河から登るときに黄土が四層、礫もまた四層で整合しているのを見た。
でその上部の黄土層が残っているところは農耕に適し、玉蜀黍、豆、粟などが見渡すかぎり穂波ゆたかであるが、
やがてこの第一層を失った礫層の土地にくると、柿や梨、林檎、桃などの果樹がつくってある。
南口駅で売る林檎は実にこのあたり一帯の礫層の産出であったのだ。
太平荘という村落に入る。
礫が多いから村界または戸界いずれも石垣をめぐらし、家屋は日乾瓦の方形土屋である。

 さてこの村からさきも、同様な洪積層の波状地で、ここかしこに西山一帯の前衛として、陥没の名残をしめしている2、30メートルの円墳状の小丘がある。
先カンブリア時代の片岩に禿げたところは層向を明らかにしめしている。
こういう小丘の向側に、沙河の一大支流が一つの盆地を形成しているが、
その主山を天寿山といい、これを正面北において連山左にまわって右巻きになった全体の凹地を自然の兆域と見たて、
これに永楽以後の十三帝陵が配置されているので、規模の雄大なることおそらく天下第一の概がある。

 正面に陵道の第一石房がある。
これは白大理石の精巧な牌楼で高3丈幅10余間。
もとは石を敷いた広い大道が南北に通じていたらしいが、
本年の洪水で流された跡を5支里ばかり行くと大紅門というがある。
ここからしばらく道路は荒れながら旧態にある。

3支里をへて聖徳功碑亭がある。
乾隆五十年明陵重修の際に刻した衰明詩が大理石の碑の裏面にある。
表面の碑文は明の仁宗の撰であるが、裏の方が書体遒勁を残している。
この碑亭に2箇の華表がある。

そこを出るとその北2支里ほどの間、石畳をしいた道の両側に石獣石人の列がある。
四獅、四豹、四駝、四象、四馬、十二文武官。
いずれも躯幹雄偉彫鏤精巧で、南京の孝陵のよりも景気がよい。

この列を過ぎると道まったく荒れている。
これは天寿山の西から出る沙河の氾濫の結果で、川幅数町磊々たる石河原と化し、過去の石橋の橋台のみ残っている。
これをわたり対岸台地の上にで10支里がほどをゆく。
なかなかひろい景色である。やがて長陵に達する。


 すなわち永楽帝の陵墓であるが、陵外の対門を祾恩門といい、
そのなかにある重檐四翼229尺の大享殿を祾恩殿という。
これはまた驚くべき立派な建築材だ。
楠で径3尺6寸高さ5丈余の円柱32本、礎石1間以上の大理石の上に矗立している有様、
さすがに立派な殿堂で、見上ぐる天井の唐草模様から柱一面の漆ぬりなかなかの巨工である。
それが今は檐傾き雨漏り、殿上の神牌も破れている有様まことにもったいないと思う。
堂後白石三階の石段を下って、ずっと奥殿に入ると成祖文皇帝陵の大石碑があり、さらにその後ろに穹道がある。
歩して登れば、宝域に達する。穹道の上に楼をつくること南京孝陵に同じい、ここに立って宝域を見れば、松柏満山葱々たりである。
ここで再び帝王の尊厳を偲ぶ。
壁上に「明治十九年宇野哲人」、「大正四年荒木十畒」などと落書きがしてあるのを見る。
日本人の来るものけだしはなはだ多いのだ。

 辞して勇を鼓してまた驢にのる。
実はさきに二回まで落ちたので、脾腿がややいたくなっているのだ。
帰途はかの石人石獣を見る要がないから、陵前1支里にして河を横ぎり西山に近づいて帰る。
途に崇陵の石壁を横ぎる。
往路4時間なりちも帰途3時間にして陂陀たる黄土と礫層との交互にでている台地をすぐれば、日ようやく没せんとして気力もやや飢えてきた。
しかし西山を背にしてこの洪積台地の突端からはるかに東南の低地を顧みるとき、雲煙縹緲、大洋に対するの感がある。
雄大の景致たしかに王者の兆域として天下に類なからんと思う。
南口につくと日まったく没して、街上カバコボと木魚を叩いて阿呆陀羅経節面白く奏するものあれば、路上土に坐して軍談読みにききとれているものもある。
言語の差異はあるが、調子は日本のそれとかわらない。
この国が本家だけに今に永続しているのだと聞きとれる。


~>゜)~<蛇足>~~
 わかりやすくするため、原文中以下の地名を変えました。
 前寒武紀 → 先カンブリア時代

~>゜)~<蛇足2>~~
 私が初めて十三陵に行ったのは1983年。学校の遠足で行きました。
 そのほか旅行客向けの一日観光などで行きましたがもっぱらバスで直行。
 留学生の人たちの中には列車で行った人も。
 いってみたらよかったなぁといまさらながらに思っています。

西湖より包頭まで 6  包頭行 -01 京綏鉄道

 9月2日午前8時、自動車にて西直門に至り、京綏鉄道の客となる。
例により軍属の警戒厳重である。
そもそもこの線は支那が自国人の苦心経営になったもので、
毫末も異国の才を借らず、
計画の当初外人均しく華人の任にたえざるを疑うたものだが、
この通りできあがったので、
「欧美仁氏、遠来膽視、莫不嘖々驚嘆」と自慢するところの
純粋の支那官弁鉄道である。
けだし1896年9月露国がその要求委かかるボドナ北京線を拒絶せられたのにつき、
さらに第二計画として、イルクーツク、キャフタ、クーロンをへて張家口より、北京に達する鉄道の敷設を要求したのが、そもそもこの路線計画の最初である。この申込に対し英国の抗議があり。
やがて支那政府から北京、長城の路線は支那自ら敷設し、外人の資本は借らず、またこれを担保にはしないという契約をしておよそ6年を経過したが、
いよいよ光緒三十一年(明治三十八年六月)に袁世凱の上奏となり、
まず京張間の敷設にとりかかった。

 しかるにこの線は北京から南口までの平野は約34マイル、一年にして成功したが、
南口のさき12マイル岔道城までは、いわゆる西山の険峻で始原代の山骨稜々として、山西台地を限り、居庸八達嶺の関門があるところであるから、
なかなかの難工事で山岳重畳渓流縦横の間に居庸関隧道1204尺をはじめ五貴山、石仏寺、八達嶺と四つのトンネルを穿ち勾配は三十分一という急斜あり。あの堅い岩塊を八旧住尺以上も切り取るやら、谷に沿うた築堤高さ60尺にもおよぶものをつくるという次第で、一方ならざる困難を極めた。

 しかし技師・詹天佑の経営よろしきを得たため、
1909年2月には京張間145マイル全通ということになった。
しかもその工費850両は京奉鉄道純益金より支弁したのであるから、
支那人がこれを誇るのも無理からぬことである。

 ついで支那政府はクーロンへの延長を企てたところ、
張家口から直接北方の庫倫へ出ては、沿道貨物が少ないゆえに
まず長城にそいて大同に出で、それより長城を横ぎって豊鎮をへ、
再び西に向かって綏遠に達し、そこより陰山を越え、
北行ただちに庫倫に達するの利を論ずるものがあって
その説に従い、一九〇九年九月以後工をすすめ、1912年大同、豊鎮に達し、
民国六年になって、さらに日本国東亜興業及び三井などより570万円の借款を起こして、1912年4月綏遠に達した。
ここまで京綏間435マイルの開通を見たが、
その勢いに乗じて綏遠から黄河畔の包頭まで96マイルを1922年に敷設し終わったももである。



参考資料:京綏鉄道

 しかし極力工事を急いだために車両の欠乏を来たし
1921年には車両購入その他の資金として米国大康洋行から230万ドル余を借入れたのであるから、前後数100百万ドルの借款を負うているのだ。
しかしこの鉄道は張家口、帰化城、包頭という三大貿易市を連ねているので、
内外蒙古一帯の毛皮畜類、薬剤、藍、曹達、雑穀をはじめ
新疆地方の綿花、葡萄の輸出線となり、
これら地方の日用品碾茶、綿布、砂糖、燐寸、煙草、紙、綢緞、石油、改装など一切の雑貨がこの線によって配給されるのであるから営業成績もわるくない。
現在、張家口は毎年3000万両以上、帰化城は二千五百万両以上、包頭は一千万両以上の貿易が行われているほかに、
沿線の開発に伴う農産物の増加また驚くべきものがある。
元来政治上もしくは軍事上の必要に基づいてつくられた鉄道であったけれども、
敷設した後からこれを見ると蒙古統御の第一義の目的はいうにおよばず、
北地開発上驚くべき成果を収めつつあるので、
昔は長城を築いて消極的に中国の安寧を保護したのが、
今は鉄路一貫積極的に漢人北進の門戸となり、
あわせてその農産物が北京その他糧食となるに至った。
まことに刮目してみるべき状況に変化したのである。

 でかように有意義なかつ有利な鉄道であるが、
なにぶんにも車両の不備を早急に改めあたわないので
一、二等などの座席のまずいこと、便所の不潔なことは支那第一ともいうべく、
軍人軍属が威張ってその専用車以外にもくみだすことや、
常人でも三島の切符で二等の席を取り、改札が今に叱っても動かないことや、
軍人の手荷物が馬鹿に多量であるいは普通人の貨物を託送されているのではないかと、不愉快に思われる点がないではないことや、
数えくれば乗心地必ずしもよろしくない。
これは営業成績にも影響しているとのことである。
予は文明の利器を取り扱う支那人が法を重んずるの習慣を得んことを希わざるを得ない。
しかしこの線が包頭よりさらに西にはハミ、カシュガルをへてバグダード鉄道に連なり、
北はクールン、キャフタをへてシベリア鉄道に連接するのは、欧亜の形成に一新時代を来たすであろうと多大の期待を掲げる。

 西直門から南口までは農耕の盛んな沖積平原ではあるが、
山に近いから礫が多く、土地もやせているところがある。
沙河・昌平の二駅をすぐれば、南口すなわち居庸関の南口で、
前寒武紀のききたる山岳の上に、長城の前門たる城壁が見える。
墩台が見える。これに烽火があればただちに北京皇城の景山に通ずるのだ。
南口河の沖積地、砂礫磊々たる川原の小高いところに、
この鉄道に付属する南口製造廠があり、50馬力の蒸気機関を据え、車両の修繕をしている。
煙突の煙が遠くから景気よく見える。
駅ができてからの新市街、南口旅館公司というに入る。
時に午前十時。ここより明十三陵の見物に行く。




~>゜)~<蛇足>~~
 わかりやすくするため、原文中以下の地名をカタカナ表記に変えました。
  伯都納 ボドナ
  恰克圖 キャフタ
  庫倫 クーロン
  哈密 ハミ
  喀什噶爾 カシュガル
 また イルクックを イルクーツク に変えました。

~>゜)~<蛇足2>~~
 参考地図は大同传媒のコラム
 [文化]这是一段久远的记忆,它不为人知却真实存在过  より

西湖より包頭まで 5  燕京の二日間 -03 地質調査所

 9月1日江浙火ぶたを切った当日、
横浜正金銀行に行って両替をすると、100円につき74元だ。
えらく影響したなと思う。
70元には下るだろうとの話であったが、
爾来円価漸落、70元を突破して64元になった。
このことはわれらの後日の行動に支障を来たさしめた一大原因である。
ぐずついてはいけない。明日は早く包頭に向かうと相談一決。
たまたま拓殖大学教授・宮原民平氏が内蒙古より帰京、
我等の隣室に来られたので、さっそく種々事情をきく。
やがて国際観光局に行って綏遠までの切符の周旋を頼む。
午後1時になる。
農商部地質調査所にゆき、屯絹胡同に同所次長・章鴻釗氏の寓居を訪ねる。
けだし士流の居宅の様子を見学した形だ。
上房客室にて種々歓待をうけ、やがて同氏に案内せられて再び調査所に至り陳列室参観。
あらゆる岩石鉱物の標本と、これに懇篤な地質図や説明書がつけてあるのに感心する。
宣昌付近氷磧層、南沱氷磧層などの地質図をはじめ各種の地図類のほかに、
左記のような解説をみる。ちょっと記して参考に供する。
 山西河南間、黄河岸三門地方有砂礫層、見於黄土之下、山西平陸縣三門黄土之下三門祖砂礫層、時代當不過初期洪積統以前、三門以下在垣曲縣層、河底地方又有此層剖面如左圖云々。
といったような調子で、これを見ると読むといずれも面白い。
出版物の2,3種を買いて辞去する。



~>゜)~<蛇足>~~
 1923年9月1日に起きた大事件は、関東大震災です。
 その影響で円がかなり暴落したようです。

 横浜正金銀行 原文では正金銀行ですが、わかりやすく正式名称に変えました。

西湖より包頭まで 5  燕京の二日間 -02 紫禁城 後編

 辞して中央公園に立ち寄り、老柏天に参する森厳な空気の下で中食をすまし、公園の隣の社稷壇に入る。
白石壇三層めぐらすに琉璃瓦の垣がある。
東は青、西は白、南は赤、北は黒瓦で畳んである。
青が紫に見え、白がやや黄味を帯び、赤が赭色をなしてはいるが、
窯色めづるに足るもので、壇の北方に社稷の祠があり黄瓦をふいてある。
壇上から皇城の方を見ると、天安門、端門、午門の結構雄大に仰がれる。



 ここを出でて紫禁城内に入るべく西華門にゆき、まず武英殿に入る。時に午後2時。
元武英殿聚珍版の活字が貯えてあったところ。
今は国立博古院の監理する陳列館で、康煕・乾隆の全盛時代の御物をはじめ、
天下の美術工芸品の淵叢となっている。
郎窯の紅、均窯の紫、青磁の凉色をはじめ名状しがたい陶器の逸品、
堆朱、印材、竹材、象牙材の技工品をはじめ、硯石、珊貝の妙品に至るまで、
一として至宝ならざるはない。
かくのごとき世界が眼前にあるのに気も遠くなる。
周代の古銅器ごときその美わしい古色に陶酔させられる。
二時間や三時間で出られるところではないが、あまりの立派さに食傷しないうちにと、
ここを出て順路太和門を通って右に体仁閣、左に弘義閣を見つつ正面の太和殿に登る。

 門外に金水河が曲線を描いて流れている。
仰げば白大理石の階欄、殿前をめぐること三段、高さ丈余、正面に磴道三つ、
これに前垂石か45枚蛟龍が刻してある。磴道の左右、宝鼎を配置すること十有八、
殿前の広場に銅亀銅鶴格一対、日圭、日嘉がある。
まことに威風堂々たるもので天子賀をうくるの正殿だという。
袁世凱の時これを承運殿と改名したとのこと。
その奥に中和殿、保和殿とほとんど同大の宮殿があって、
も一つ奥に乾清宮があり、満州皇帝の居邸になっている。
保和殿には四庫全書の一が置かれてある。
今これら雄大な聯階の上に立って、
階欄の下はるかに低い廷上の廊廡に群臣百官を置くときの天子の尊厳を思うと、
なるほどこれが宮殿というものだと感じる。
漢高祖が、「今日皇帝となるの貴を知る」と叫んだ長楽宮も
あるいはこんなところであったのであろう。

 ここをおりて協和門を出て、文華殿に行く。
武英・文華と相対して太和殿外の左右にあり、
文華殿は東で東華門から入るのが本道である。
もと文淵閣とてしこの一を蔵したところであったが、
今は武英殿とともに陳列所にあてられ、ここで書画の逸品を展覧せしめる。
方琮、仇英、文徴明などの霊筆に見てとれる。
辞して清史館の前を通り東華門を出で、
南池子街を南して正陽門に出で一路南して外城内の天壇にゆく。



 ここは天子親しく皇天上帝を祀るところ。
明の永楽十八年の創建で、周囲九里十三歩の磚塀がある。
規模宏大の禁地で驚くべき老柏の野原ともいうべきところである。
まず右手の斎宮に入って、古の楽器を見る。
十六律の黄鐘および玉磬、十八の方響(鉄)の立派なのに驚く。
祭器楽器数多きものの中に敔とて虎形の背に木片数十をつけたのが珍しい。
ここより歩して林野の間を過ぎ天壇に達する。
その圜丘は天にかたどって白大理石算段に築き上げてある。
各段五尺余の高さがあり、径二十一丈に達する。壇をめぐって二重の垣がある。
壇下に五つの鉄篝があり犠牲を焼く竈も見える。
圜丘の北の成貞門を出ると皇穹宇と名づくる祠堂があるが入れてくれない。

 皇穹宇から後方の大通りを北に行くこと一支里にして祈年門がある。
祈年殿の入り口である。
殿は正月上辛天子年を祈るところ。
光緒二十三年の再建として碧琉璃にて葺いた円形の三層楼がまだ新しい。
殿内仰いで柱組みや丹碧の傅彩を見る。
壮麗実に天壇第一の偉観である。



ここを出て先農壇にゆく、嘉靖年代の創建である。
周囲六里の長垣をめぐらし中に太歳殿、神祇壇、観耕台などがある。
今は城南公園と化し、太歳殿は警察部が宿所とし、観耕台は茶店となり、
籍田の跡まったく荒れてテニスコートに化し、
天神および地祇を祀った石造の龕、むなしく雑草の中にうずもれ、
方壇まさに崩れんとするの状、まことに遊子の失望に値する。
かずこれで見物日程の第一日を終わったことにして帰る。
夜に入ってさらに中央公園の夜景を見、転じて城南公園に遊ぶ。
いやに殺風景なところだ。
十一時帰宿。 



~>゜)~<蛇足>~~

 「大和殿」、先農壇の「大歳殿」を「太和殿」、「太歳殿」に変更しました。
 太和殿前の「日晷、嘉量」はオリジナルでは「日圭、日嘉」になっています。
 参考までに
   日晷(にっき)は日時計、嘉量(かりょう)は度量衡の標準器です。
   
   手元の『紫禁城』の写真集(1987)からの参考写真です。

~>゜)~<蛇足2>~~

 天壇の祈年殿について「壮麗実に天壇第一の偉観である。」と書きながら、
 挿入写真が、祈年殿内部...。何と言いましょうか....。
 

~>゜)~<蛇足2>~~

 北京は乾燥しているイメージが強いのですが、
 場所によっては緑が多く存在します。
 昔、「孔子廟に野生のフクロウがいる」と新聞で読んだことがあります。
 いまでもいるのでしょうか?
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