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燕京雑考@ブログ版
中国・北京の歴史、風習を紹介。一日一つを目指します。
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西湖より包頭まで 6  包頭行 -03 居庸関

 9月3日朝5時魁氏に起こされる。
ここから居庸の四重の関を驢馬にて突破するのだから、ちと早起きを余儀なくされたのだ。
旅館を出て鉄道線路を西に横断し、南口河の河原の上をゆく、
暁風楚々気持ちがよい。

 『水経註』に
「其水南流歴故関下、渓之東岸有石室三層、其戸牖扇悉石也。蓋故関之候台矣。南即絶谷、累石為関垣、崇墉峻壁、非軽功可挙。山岫層深、側道褊狭。」
とあるから、
西暦5世紀すでにここに山から山へかけて塁壁のあったのはたしかである。

 この文中に古関と称するほどであるから、けだしよほど古い時代からのもので、
秦始皇がつくらしめた『呂氏春秋』にも、天下の九塞を挙げて居庸を記しており、
『淮南子』の「九塞」にも出ているから、この北方に通ずる関署はあるいは燕代にすでに設けられたにちがいない。

 明代京師防備の第一線として古北口、居庸、紫荊の三つを特に重要視したのであるが、
元の大軍の勇猛をもってしても、金人のここを守るとき抜くことはあたわず、
嘉定二年には紫荊関から涿易二州に下り、それからこの南口に攻めて来たといい、
あるいはこの関所の東の松林の中の間道、わずかに一人しか通れないところを、元の太祖が通って南口に出て攻め上ったという伝説があり、
まことに天下の要塞燕王のいわゆる北平の噤喉であるから、永楽以後常に衛を置いたところである。

 さてこの関所にはこの南口と八達嶺にある長城の関門すなわち北口とがあって、その南北二口の間に居庸関と上関があるから、合わせて居庸四関という。換言すれば長城の内側に三重の関所をつくり、各山から山へ取り巻いた定石をもっているのである。
 南口の河原からこの左の山手の塁壁と、右の山手の墩台との間を進んでまず最初の城壁関門に達する。
この門を入ると古の南口市街で街並みの揃った20戸ほどの民家がある。
道路はすべて石畳であったのが、今はあれている。
『明史』の記すところにしたがえば、「南口城は洪武二年大将軍徐達の築くところ」とあるから『水経註』の作者の見た石塁ではないのであろう。

 南口からさらに5支里をすすむと再び前面の山から山、谷から谷へ城壁が委蛇たるを見る。
これすなわち有名な居庸関で入口に穹門が二つ、一を通って右に曲がって第二門に入るとこれに「居庸関」と題してある。
穹門破れて危険だから、新道が外側を迂回してつけてある。
この門から行くこと1町にして道の中ほどに高3丈1尺の白大理石の穹門、道幅2丈4尺がある。
 これは雲台または過街塔と称せらるるもので、元武宗が太后の寿福を祝して建てた塔で、
洞壁に釈迦像、金剛像などをはじめ、仏画やら漢、梵、蒙、回紇、女真の五体で呪文が刻してある。
洞道の両口にインドのガルタ像がほってある、彫刻の精巧真に驚くべきものがあるが、頂上の塔は今は烏有に帰し、道下の白大理石の敷石には風雨千年車軌の通った幅三寸深さ三寸ほどの轍跡がついていて、そぞろに懐古の情を呼ぶものがある。

 茶店にてしばし休息してさらに進めば、街を離るるところにまた二つの穹門があって、また外方に「居庸関」と題してある。
この関をさると先カンブリア時代の片岩に代わるに花崗岩の噴出地となるから、
風蝕の結果両岸は秀峰壘起してまことに風景の妙を極める。
道路は荒れに荒れてまるで渓流である。
8支里を行くと第三の関門がある。
これを上関というが、その外方に「居庸外関」と記してある。
上関からさきは途いよいよ急に、渓谷ますます蹙まる。
谷に添うた旧道まったく破れて弾琴峡の方へ行けない。
しかたなくここで左方の山道を越える。
峠の下に五貴山隧道があるのだ。
この峠を越えて溪畔に出ると路傍に大きな岩がある。
これに二大字を題して「仙枕」とある。一大花崗岩である。
呂賁の隷書で非常に立派な字であるが、なおこの石には大行散人の詩、陽和の凱旋記などがほってある。
よく見るとこのあたりの路傍の花崗岩の少なく大なるものや断崖のところどころに種々の文書が刻してある。
いずれも能筆である。

 石くれだった峡道をすすむと途中で奥地から馬群数10匹を率いた一隊に出会うこと2度、牛群にあうこと1度、いずれも手綱をかけていない。
2名ほどの牧夫の命に従って歩んでくる有様まことに温順なものだ。
馬を追うにはオウ、オウといい、牛にはチョツ、チョツと掛声している。
日本では馬にはドウ、ドウ、牛にはチョイ、チョイという。
なんだか似ているのも可笑しい。
やがて上関から17支里青龍橋村に達する。
これは北口の宿駅で、嶮崖によって作られた一山村であるが、
駅は右方の山腹に設けられている。
比較的豊かな住宅の2、3を見受けた。
 この村からいよいよ八達嶺へ登るには、花崗岩の山道をおよそ3支里すすむのであるが、磊塊たる嶮坂である。
驢馬なればこそよくも登るものだと思う。
荒れた道を何度となく切りひらいたのであるからその切り下げた崖段が三つまでものこっている。すべり落ちたら大変だ。
ようやくにして八達嶺の関門に達する。
ここにも内外二重の門があって外門に「北門鎖鑰」の四大字がある。
まことにこれぞ華夷を限るの天嶮で有名な万里頂上に達したのである。



~>゜)~<蛇足>~~
 わかりやすくするため、原文中以下を変えました。
 前寒武紀 → 先カンブリア時代
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