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燕京雑考@ブログ版
中国・北京の歴史、風習を紹介。一日一つを目指します。
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天安門の前は現在長安街というメインストリートになっていますが、ちょうどこの通りにかつては長安右門と長安左門という門があり、外部から天安門には直接入って来れないようになっていました。


この二つの門のうち、長安左門は「龍門」と呼ばれていました。そうです。登竜門の「龍門」です。

中国では「科挙(かきょ)」というとても厳しい官吏登用試験が行われていました。郷試、会試、殿試というのが主な科挙の試験です。郷試に合格したものが、会試を受け、会試に合格したものが殿試を受けます。そして最終段階の殿試の最終試験には皇帝自らの面接テストが行われるのです。この殿試の最高位の合格者三名は一位から「状元(じょうげん)」、「榜眼(ぼうがん)」、「探花(たんか)」といわれます。

さて、殿試のあと二日後に合格者の発表があります。紫禁城にて合格者の名前が呼ばれるのですが、呼ばれた後、管理によって長安左門に名前の書いてある立て札が運ばれ立てられるのです。合格発表の前、それらの受験生たちはなんの功績もない普通の人ですが、名前が書かれた立て札がその門をくぐったときに、その人たちは官吏としての第一歩を踏み出すことから、鯉が「龍門」をくぐって龍になったの故事にたとえられ、「龍門」と呼ばれるようになったのです。

もう一方の長安右門は「虎門」と呼ばれていました。と言うのは、死刑囚が最後の死刑宣告を受け、刑場に向かう門だったからです。

死刑の最終宣告は秋と冬に行われました。冬の場合には霜降まえに死刑囚は天安門前の西千歩廊で最終的な刑の宣告を受け、冬至の日に長安右門から、宣武門を経て、刑場(菜市口)に向かいました。運良く、最終宣告を受けないものもあったようです。それらの死刑囚たちは、一年命を永らえたと、家族が首に赤いサンザシの実をかけて祝ったといいます。しかし、最終宣告を受けたものたちは、「虎の口に入って行くがごとく」であったことから、この門は、「虎門」と呼ばれたのでした。

かたや「龍門」、かたや「虎門」……。この二つの門は、現在はないものの、かつては向かい合って存在していたのでした。

ちょっと蛇足になりますが、この同じ時代に「東は生をつかさどり、西では死をつかさどる(東邊掌生、西邊掌死)」という言葉があったといいます。現在の天安門広場の西側にはかつて軍や裁判やそれに関したお役所が並んでいました。それでこのあたりは「生死街」と呼ばれていました。反対に東側は、お金や、皇族、貴族がかかわるまつりごとについてのお役所などがありました。そのことから「富貴街」と呼ばれていたそうです。

現在は、天安門が残るだけで、お役所もそして、長安右門、長安東門も残っていませんが、世界に誇る広い広場には、このような歴史が残っていました。

注)地図をクリックすると、拡大した地図を見ることができます。

 

参考図書:
『天安門広場歴史档案』
中共中央党校出版社
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