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燕京雑考@ブログ版
中国・北京の歴史、風習を紹介。一日一つを目指します。
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象の小屋に象が飼われているときに限ったが、毎年六月六日には象を宣武門の外に連れだし河で水浴びをさせた。多くの人々がこれを見に来た。あるとき象が暴れ人を傷つけたため、それ以降象は飼われなくなってしまった。しかし光緒十年(1884)にはまだ見られた。象小屋は宣武門内の城壁の傍らから西側にあり、天子の儀仗をつかさどる官署(鑾儀衛(らんぎえい))が管理していた。見学者がくると象は鐘や太鼓を鼻で鳴らした。見学者が象使いにお金を出すと、教えられた芸を見せてくれた。象は象使いを横目でみていて、「おもらい」の金額によっては鼻を高高とあげ、雄たけびを出すのであった。象が病に陥ると耳から油を出すという。それを「山性発」といった。しかし一般に象の寿命はながかった。道光年間(1821-50)にいた年老いた象の牙には銅の箍がはめられていた。その銅の箍は唐代のもので安禄山、史思明らが携えてきたものだという。後年、像使いらは上前をはね、象を冷遇したため、象は相次いで亡くなり、咸豊以後十年以上にわたり象小屋には象がいなかった。同治末年(1874)と光緒元年(1875)に二度にわたり越南(ベトナム)から二度にわたって6、7頭の象の献上があった。きわめて大きいものであった。都の人々は天下泰平の証と喜び、路上にあふれたが、東長安門で象が人を傷つけて後、監禁されてしまい、二度と天子のお召しがなかったために顧みられず、2,3年の間に餓死してすべて姿を消してしまった。

『日下旧聞考』によれば
象小屋は明の弘治八年(1495)に造られた。象は都に連れてこられると、まず射箭所で訓練された。そのため射箭所は演象所ともいった。また天子の直属部隊(錦衣衛(きんいえい))にも馴象所があり、それが象使いと象を管轄、天子の直属部隊からは一名を監督として任命していた。大式典では車をひかせ、宝物を担う役としていつもすべての象が使われた。一般の式典では6頭の象が使われるのみ。象にも階級があり、それに応じて禄が授けられていた。清になってからも似たようなもので、管轄が天子の直属部隊錦衣衛から名前が鑾儀衛にかわったのみである。

2001/08/01
改稿2011/05/31
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