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燕京雑考@ブログ版
中国・北京の歴史、風習を紹介。一日一つを目指します。
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城壁に囲まれた街・北京

北京は、かつて城壁に囲まれた町でした。その城壁は中華人民共和国となって以来、交通の便をよくするために取り壊され、その跡は、「ニ環路(アルフゥァンルゥ)」という四角形の環状道路となりました。ものの本によれば、城壁の上は馬車が通れるほどであったといいますから、城壁を取り除いた跡は幹線道を作るに値する幅があったのです。


明、清の時代北京は二つの部分に分かれていました。内城と外城です。内城は、俗に言う北京城の部分で、9つの門がありました。この9つの門のうち、現存するのは正陽門という故宮の真南にある門と、徳勝門という北西のもんです。外城は、内城南に出っ張るような形の部分で、言ってみれば「下町」のような場所でした。そして、ニ環路は内城と外城を取り囲むように角張った瓢箪型で町を取り囲んでいます。

城壁も門もほとんど存在しない現在でも、ニ環路が城壁のように存在しているため、地名をかつてあった門の名前で言っても何の違和感もありません。朝陽門の内側は、朝陽門内、外側は朝陽門外。通りの名前も同じく、東直門外大街などついています。

また、城内と城外、城内でもその場所場所によって町の雰囲気が全然違います。内城は紫禁城があり、官僚なども住んでいただけあって、格式ばった雰囲気がありますし、外城は商店も多く、道も込み入っていて、なんとなく繁雑とした感じ。ほっとしたいときには内城の胡同(フートン)(横丁)を、人々の生の生活に直に触れたいときには外城の胡同をあるってみることをお勧めします。

そうそう、北京をよくご存知の方だったら、建国門、復興門、和平門がこの地図にはないことに気がつかれるでしょう。これらの門は、後に交通の便を考えあけられた門です。特に、和平門は、外国が中国を侵略、大使館を作りましたが、その交通の便のために、作らせたといってもいい門です。この門ができたとき、街の人たちは「風水が壊れる」と大騒ぎをしたとも伝えられています。

ニ環路の内城部分を循環している路線バスもあります。特に夏は、お堀ほとりの緑も多く、すがすがしい風景を見ることができます。試しに1周して見ませんか?ただし、交通渋滞に巻き込まれることが多いので、時間が十分にあるときに、お試しください。

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公主墳の二つのお話し

北京に留学した当初から気になっていたことの一つ。
北京のメインストリートを走るバスのルート「八王墳-公主墳」がありました。
訳すと「第八皇子のお墓-皇女のお墓」となります。
(ちなみに、ではその路線名は残っていません)

「皇女のお墓」……「お姫様のお墓」……いったい誰のお墓なのでしょうか。
今は環状線とメインストリートの立体交差になっているだけで何も残ってはいません。
なぞは深まるばかりだったのですが、ようやく二つのお話しに巡り会うことが出来ました。
今回は、そんな公主墳についてご紹介します。

公主墳のおはなし  その1

 昔、満州族の皇帝に、満州族以外の民族をずっと敵対視していた皇帝がいました。その皇帝にはひとりのとても美しい皇女がいました。たくさんの隣国の皇子や王子から求婚がありましたが、この皇女の目にかなった男性はありませんでした。このころの元帥に金泰がいました。彼は年は若いものの戦の経験も豊富で、博学な男性でした。そして、そのうわさは皇女の耳にまで達していたのです。

 ある日、皇女は香山に遊山に行く途中、練兵場で金泰に出会い、二人は恋に落ちました。そして二人はともに重い恋煩いを患ってしまいました。このことを聞いた皇帝は、すぐさま二人を結婚させ、二人は幸せな新婚生活を送っていました。

 そんなある日、皇女と金泰は二人がであった香山麓に出かけました。金泰は亀山に向かって物思いに沈んでいます。そんな夫を見守りながら皇女は、夫は皇帝のためなら何人をも顔色一つ変えずに殺してしまう人だと言うことを思い起こし、不安を感じていたのです。そして彼女は「満州人の土地に侵入した他民族の人たちをすべて殺してしまうと言う、私たちの掟をなんとか亡くしてもらうように、父・皇帝にお話ししようと思っているのです」と夫に打ち明けました。そんな妻を見て金泰もまた不安を感じていたのでした。

 明くる日、金泰は実は満州人ではなく漢人であるとの密告がありました。皇女は夫の出身を知るにおよび何とか彼を救おうと決心、彼の忠誠心を父である皇帝に訴えました。皇帝は娘の訴えに金泰を殺す事が出来ず、金泰を田舎に帰したのでした。

 夫が田舎に帰ってから涙に暮れたいた皇女のもとに半年後、金泰の遺書が届きました。遺書には、皇女から近い亀山の麓に自らを葬って欲しいと書かれていました。彼女はその遺書を読むと、用意してあった毒杯をあおり自ら命を絶ってしまいました。

 この悲劇は広く行き渡り、皇帝の耳にも入りました。皇帝は金泰を亀山に手厚く葬りました。しかし皇女はそこから遠く離れた土地に埋葬されたのです。それが現在の公主墳です。ここにはこんな悲しいお話しが隠されているのです。




公主墳のおはなし その2

明の終わり、孔有徳と言う将軍がいました。彼は明に仕えていましたが、その後清に仕え数々の功績を残し定南王に封されました。その後南方の反乱軍の鎮圧のために兵を率い、その途上で命を落とします。

この孔有徳には貞四という娘がありました。父亡き後北京に逃れ、時の順治帝の母宮に引き取られ宮中で皇女として育ちました。成長して内大臣・延齢に嫁ぎ、父の後を継いで定南王に封されました。夫婦はともに南方に赴きます。その後反乱が起き、夫は反乱軍に寝返ってしまいます。しかし孔貞四は夫が寝返ったあと夫に従わず、兵を率いて反乱軍を静め北京に戻り、97歳の天寿をまっとうしました。そして彼女が葬られた場所が皇女の墓・公主墳と呼ばれるようになったのです。


参考図書:
「北京伝統文化便覧」 北京燕山出版社
「老北京旅行指南」   北京燕山出版社
 

八王墳についてはまた調べがついてから



北京の蘇州街

  留学していた頃、大学の近くに「蘇州街」という道の名前があり、それがとても気になっていました。本をなんの気なしに繰っていたところ、その由来について出ていましたので、それをご紹介しましょう。

  さて、蘇州街の蘇州は、江南の地名の蘇州です。その昔、乾隆帝が皇太后、つまり母君のお誕生日の為にその一帯を蘇州に似せた町並みにしたことからその名前がついたといいます。

  前に乾隆帝の事を調べていたわかったのですが、乾隆帝は江南の地方が大好きだったようです。数多い巡幸に母君も同行しているようですから、皇太后も江南が好きだったのではないでしょうか。

  乾隆二十六年、孝聖太后の70歳を祝ったときに、乾隆帝は蘇州を模した町並みを作らせたようです。道の両側には明かりがともされ、10歩ごとに舞台が設けられ、5歩ごとに楽団が陣取っていたといいます。その全長3里、まさに蘇州の繁華街を思わせるものだったと物の本には書いてあります。そしてそれは年を追うごとに華やかになり、乾隆の末年には10里を超していました。乾隆の次、嘉慶五年まで続いたといいますが、その後あまりの浪費に蘇州街は廃止されました。ただ、万寿寺の廟会の期間だけ元の蘇州街の一帯に自由に市を設けることが出来たといいます。

  書物を見てみると、現在蘇州街といわれているあたりは、その一部だったに過ぎないようです。北京城の西直門外、万寿寺から10里……。

  蘇州街の絵ではないと思うのですが、乾隆帝の母君のお誕生日を祝う町の様子の絵が絵巻物になって残っています。(万寿盛典圖、九老作朋圖、厘延千梵圖など)。そこから見ても、とても華やかな催しだったようです。面白いのは、それらの絵の街行く人はほとんどが官僚で、女性の姿もなければ、一般庶民の姿もありません。このようなときにも女性は外出しなかったのでしょうか?

  後宮の女性は一度中に入ってしまうとよほどのことがない限り、外に出ることはありませんでした。皇帝の巡幸にお供する機会なんかはそんなまれな機会だったでしょうね。そんなときに見た江南の風景に心奪われることは当然の成り行きでした。頤和園のなかにも蘇州街があります。これは西太后がつくらせたものですが、北方の人々にとって、潤いのある江南の風景は一種のあこがれだったのかもしれませんね。

扁額の「門」の文字

皆さんは「門」という漢字をご存知ですよね。扉の形の象形文字ですが、右と左は対照ではなく、右側をはねて書くこともご存知だと思います。はてさて、ところが北京の城門と故宮内の扁額の「門」の漢字、よく見てみると右も左もはねていないのです。果てさて、これはどうしてなのでしょうか。

かつて友達から「正陽門」の門の文字がはねていないのは、そこを出入りする皇帝の体を傷つけないためと聞いた事がありましたが、旧い北京についてQ&Aの方法で書かれた本にもそのことが言及されていました。

 昔、どの皇帝だったか、北京への出入りに南門である「正陽門」を使っていたが、あるとき、城門の名まえが書かれている扁額を見て、眉をひそめた。その文字を不吉に感じたらしい。門の文字がはねていることが気になったようだ。宮殿に戻るとすぐに正陽門の門の文字のはねを削らせてしまった。そのことにより、「正陽門」を使って出入りする皇帝が順調であることを願ったわけだ。それ以来、正陽門の扁額の門の文字ははねることなく書かれている。
 

 ここでは、北京の正門である正陽門にしか言及はされていませんが、前述したように、北京の城門のすべて、そして紫禁城の門の、すべての扁額の門の文字がはねていません。

 いつ頃からこのはねていない門の文字が使われるようになったのか、まだよくわかっていないようです。でも文字のはねている部分を嫌って、まっすぐにしたというのも面白い話ですね。


こちらは天安門の次の門にある、紫禁城に入る門「午門」の扁額


故宮の中の小さな門の名前が書かれた扁額
この門の文字も右側がはねていませんね。


☆ちょっと調べて見ました
 頤和園などの門も、門がはねていませんでした。が、明の十三陵のある陵の門の文字ははねていました。いろいろな門の名前の扁額を見比べてみると面白いかもしれません。

紫禁城内の扁額

扁額とは建物や門などの名まえを書いて書けてある額のことです。中国では到るところで、赤い縁、そして紺地に金色の文字の扁額を見かけます。

さて、故宮、つまり紫禁城にもたくさんの扁額がかかっていますが、実は外朝部分の扁額のみが漢字だけで書かれていることをご存知ですか?

紫禁城は明の時代に建てられましたから、その当時は漢字のみの扁額だったと思われますが、満州族の清が中国を支配するにいたり、彼らは明の宮殿であった紫禁城を自分たちの宮殿として使用します。その際に建物や門の名前は改称され、扁額は漢字と満州文字でかかれました。そのため、現在でも紫禁城以外でも多くの皇帝関連の場所では漢字と満州文字の扁額があります。

それではどうして外朝部分、つまり、紫禁城でも政治を行う南の部分のみ漢字だけの扁額なのでしょうか。

それには理由があります。清が辛亥革命によって滅亡したあと、袁世凱が中華民国臨時大総統の地位に就き、その後帝政宣言を行い、自ら帝位に就きます。結局は帝政を3ヶ月で取り消しますが、その間に、紫禁城内の扁額を漢字のみに書き換え、漢民族による王朝だと言うことを示そうとしました。つまり3ヶ月で書き換えられたのが外朝の扁額だったわけです。内廷つまり後宮部分の扁額は書きかえられることなく、現在でも清朝時代の扁額が残っています。

ちなみに、天壇の扁額は書きかえられており、漢字のみとなっています。袁世凱が帝位に就いていたときに儀式を天壇で行っているため、そのときに書きかえられたようです。

漢字のみの扁額


清朝の名残のある漢字と満州文字の扁額
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