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燕京雑考@ブログ版
中国・北京の歴史、風習を紹介。一日一つを目指します。
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中国人は自らを「華人」、「龍的傳人(龍の子孫)」、「中国人」と呼びますが、それらの源についてご紹介しましょう。

中国の古代文化には二つの大きな流れがありました。
ひとつは渭河流域の「仰韶文化」、
そしてもうひとつは大凌河流域の「紅山文化」です。
「仰韶文化」の象徴はバラの花で、「紅山文化」は龍が象徴となっていました。
6,7千年前には華山(陜西省東部)から燕山(河北省北西部)の北にバラ、龍が見受けられるようになっていたといわれています。桑乾河上流の地域(河北省山西省北部)ではバラと龍が相接していて、両者の結合は大凌河上流地域で見受けられます。これらは5千年ほど前に登場します。廟や墓石のデザインにバラと龍のデザインを見つける事ができるのです。このことからこのころに華(花)と龍を象徴とする異なった文化を持つ人々の融合があったとおもわれます。これらの文化が中国の基礎となっていますから、中国の人々は自分たちを「華人」「龍の子孫」と呼ぶようになったわけです。

さて、中国についてはこのようにいわれています。神話の中の皇帝に話が飛びますが、尭、舜、禹といった皇帝がいました。その中の「舜」は即位にあたって「中国に至った」と書物にかかれています。後にその中国という言葉は「帝王が都を建てた地を中心とする。ゆえに中国という」と解釈されるようになりましたが、中国の皇帝伝説の中ですでに「中国」という言葉は存在していたということです。

「中原」つまり古代中国の都があった地方において、「華」と「龍」とはじめは晋南を指す言葉でしかなかった「中国」ということばが出会いました。そして中国人、華人、龍的傳人という言葉が同義語となっていくのです。


 


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2000年07月14日



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私が留学したころにはまだずいぶん見かけが、四半世紀が経ち、見かけることがなくなったものの一つに、おばあちゃんの小さな足がある。

小さな足のおばあちゃんは、昔風のチャイナカラーの木綿のブラウス(色はたいてい薄い灰色)に黒っぽい色のズボン。そしてちょっと代わった布靴をはいている。そして、外股にヨチヨチと歩いている。初めて見たとき「あ、これが纏足した足なんだ」と心に痛みを感じながら目をそらしたことを覚えている。

足の親指だけを残し、ほかの指を内側に曲げて、長い布で縛るの。つま先からか、踵からかは知らないけど。その足は、本当に「三寸金蓮」(10cmほどの蓮の花びら)。本当に小さいの。だけど、そんな足も成長するから、足の甲は厚いわよ。とっても不思議な形をしている。

足を縛り始めたころ、痛くても痛くても、足を縛ったばかりじゃなくて、痛みをこらえながら歩かされたということよ。それでも嫁に行けないとなると、大問題だから。だって、何を見るよりもまず、足を見られたらしい。それにね。私の母は、ちょっとだけ縛ったけれど、止めたの。そう言う自由な風潮もある時代だったから。でも姑にはずっと影で言われつづけていたわ。「足が大きいのに」って。

祖母は、死ぬときに履く靴を自分で作っていたの。とても素敵な蓮の葉なの刺繍をした紺色の靴だった。子供心に「もったいないなぁ」って思ったのを覚えているわ。


李華さんの思い出話だ。彼女のお母さんは子供も少なく、だから甘やかされて、その時代の風潮もあってちょっとだけ足を縛っただけですんだという。だけど、普通の足の形はしていなかったと。そして彼女の四合院に間借りをしている80歳近くのおばあちゃんはやっぱり小さい足をしている。

祖母がね、友達3人で天安門のあたりにお散歩に行くの。その3人とも纏足で。ヨチヨチ歩きなのね。その姿、なんとも言いようがなかったわ。
それから、その3人がときどき足の品評をしているのよ。(笑)

足を洗うときは、そりゃ大変だったわよ。骨から曲げた足を隅々まで洗うんだから。なんて手間がかかるんだろうって思ってみていたわ。


もう数年経ったら、消えてしまうであろう、今でも残る、昔の弊習の名残。


足をこのように矯正していた。
東方書店出版
「チャイニーズグラフィティ」より

北京は、別名「燕の都・燕京(えんけい または えんきょう)」といいます。その名前はどこから来たのでしょうか。

辞書を紐解くと、鳥のツバメと北京を意味する「燕」では発音が違いことに気がつきます。
鳥のツバメは、イェンとちょっとなげやりに言った感じの「yan4声」。北京を意味する「燕」はけだるくイェンと同じトーンで言った感じの「yan1声」。こう書いただけではちょっとわかりにくいかもしれませんが、日本語で言ったら、「すずり」と「煙」といったぐらいの発音の違いが中国語ではあるのです。(ってどんな説明でしょう(^^ゞ)

歴史ががお好きな方なら、燕といえば、春秋戦国時代の燕の国を思い浮かべられるでしょう。そうです。北京の「燕」はそこからきているのです。その燕の国の都。それが北京の別称の「燕京」なのです。

それでは北京とは?

南京は皆さんもご存知ですよね。元の時代、大都がその都でした。大都とは元の時代の北京の名前です。そして元のあと、明が起こり、現在の南京に置きます。南京は都が置かれた当時「京師」、つまり都といわれますが、その後、燕の地を治めていた燕王であった永楽帝が即位、都を燕の地に移し、その都を北の都「北京」、そしてそれまでの都を南の都「南京」と呼ぶようになるのです。

そうです、北京とは、古いようで、新しい名前なのです。燕京という北京の別称が、実は北京より古い名前なのでした。

春になり、燕がたくさん飛ぶ季節になると、燕の都、というのもあながちうその名前ではないのだなぁと思うのでした。
今日は十六日、買い物に出かけ、
「まだ月餅売ってる!!!」と思ってしまいました。


十六日の月餅... という言葉を聞いた記憶があるのですが....
意味は、日本のクリスマスケーキのような...

もしもご存知の方、ご連絡ください!

旧暦(中国で言う農暦)の八月十五日は、中秋節。
家族がそろって、丸い月を拝んで、過ごすお節句です。

そういえば、
仲秋の十五夜とか、中秋の名月とかいいますが、
なにがちがうのでしょうか。

ここで注意してほしいのは、仲秋と中秋です。

仲秋は、旧暦八月のことを言います。
旧暦では秋は、七月、八月、九月のこと。
七月、八月、九月を初秋(七月)、仲秋(八月)、晩秋(九月)といいます。

中秋はその秋の三ヶ月の真ん中を指します。
ということは...八月十五日がその日に当たり、
八月十五日を中秋といいます。

ここからは言葉遊びに近くなりますが....

中秋の十五夜... は、八月十五日の十五夜になってしまうので、こういう言い方はありません。
中秋を使うなら、「中秋の名月」になります。

仲秋の十五夜... は、八月の十五夜ということで、この言い方はOKです。
仲秋の名月という言い方は無きにしも非ずですが、”秋の名月”ということで、
十三夜、芋栗名月などすべてこの言い方でOKという言い方もできます。

なので、俗に言うお月見を言うなら
「仲秋の十五夜」、「中秋の名月」....
こういうことになると思います。

ご参考までに...
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