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燕京雑考@ブログ版
中国・北京の歴史、風習を紹介。一日一つを目指します。
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霜降の七十二候は
 一候: 豺乃祭獣(豺すなわち獣を祭る)
 二候: 草木黄落(草木、黄落す)
 三候: 蟄虫咸俯(蟄虫ことごとく俯す)
 狼が捕まえた獣を食べ、草木が色づき落葉し、虫たちは冬眠に入る季節です。


 参考までに白露の日本の七十二候は
  初候:「霜始降花」(しもはじめてふる)
  次候:「霎時施」(こさめときどきふる)
  末候:「楓蔦黄」(もみじつたきばむ)



~>゜)~<蛇足>~~
 秋の最後の二十四節気です。
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西湖より包頭まで 7  北京滞在 -03 通恵河、(観象台、雍和宮、文廟等)前編


 

9月13日、午前8時起床。顏を洗い居れば田中多田二君帰宿。
毛も延びたとて散髮をする。
武川に行く途で多くの出稼人の帰るに逢うた。
中秋節を期として奥地から引上げるのだそうな。武川の盆地も既に漢人の居住する所で蒙古人の片影をも見なかつたと失望しての話である。
そこへ農商部の章鴻釗氏の来訪をうく、前日の歓待を謝す。
午前11時になった。今日は二閘<アルチャー>に行かうと西田君を誘うて出かける。
それは元代大運河の起点であるから水路も見また閘というものを実見したいからであった。

『元史』を見ると「通恵河其源出於白浮甕山諸泉水、世祖至元二十八年,都水監郭守敬、奉詔興擧水利因建言疏鑿通州至大都河、(中略)玉泉諸水至西水門入都城、南滙爲積水潭(北海其他)、東南出文明門東至通州高麗莊入白河、總長一百六十四里一百四步、云々」 とある。
『畿輔通志』によるとこの甕山は萬壽山で玉泉から出る水が萬壽山下で昆明湖となる。
その水をひいて北京の西門に来って一部は城壁の外の濠にする。
一部分は城内に引き入れて、北海中南海をはじめ皇居の濠および金水河となるが、
それが御河となって文明門、すなわち今の正陽門外に出て、東して護城河と合し
それから通州までを運河にしたといふのである。
しかしこの運河は元以前にあったもので、隋代「永済渠を北涿に通じた」とあるのがすでににその最初最らしい。
故に郭守敬がこの運河を作って所々に閘門をつくつた時、その閘の位置から旧牌の磚木を得て時の人を感心さしたとある。
至元二十九年に出来上つたが、それ以前は糧食は通州から陸運であったので、人民大にこの運河を徳とした。

『畿輔通志』に「崇文門外の三里河は元時の文明河、糧儲の運道で銕閘今猶存する」とあるが、
この三里河は正陽門の東南天壇附近の池へ流れる川のことで、昔はここへ運河がきたのである。
して見るとこの元の通恵河が、今のこの二閘のと同じ川であつたとはちょっとうけとれない。
思うにこれは元代以後、数数百年度々改修したからで、
元代には閘が七ヶ所もあり江淮の舟直ちに都城まで達したとあるのに、
今は通州までに閘が五つで、しかも閘を舟が通り得ない。
全く変わっている。
けだし元の都を継承した明の初めに、一時この元の運河は淤塞していたから、
永楽に再びこれをつくり、その後、成化・正徳の間、度々改修し、
最後に嘉靖六年に今日の通恵河が出来たとあるから、
昔のままに今もあると考えてはならぬのである。


燕京雑考> 燕京歳時記 七月 「灯篭流し」...より
 

~>゜)~<蛇足>~~
 二閘の昔の写真は
 ブログ「枫影斜渡_vwb的博客
 「一张京杭大运河大通河上庆丰闸(二闸)的老照片」より

~>゜)~<蛇足2>~~
 「二閘」の「閘」は水門のことで、
 「二閘」は北京から数えて第二水門という意味です。
 北京郊外の夏の行楽地で、
 清の時代は、中元には精霊流しでにぎわったそうです。

西湖より包頭まで 7  北京滞在 -02 京師図書館

 

9月12日、前日来の疲労にて昨夜はよく寢れた。
今日は松浦君が図書館に案内してくれる日である。
まず正金銀行に行って両替をする。相場100円につき73元である。
戦雲動いて銀価騰貴の勢にあるのだ。
人力車にのつて北京市街の北部方家胡同にゆく。
この附近は満州人の住宅地で家宅の形式古びたれども
一種の特色があって南の方とは樣子がちがう。
半ば朽たる牌楼の豪奢語る状のなかなかに憐である。

図書館に入ると陳君が出られて極めて懇切に案内してくれられる。
『四庫金書』はもと文淵、文溯、文源、文滙、文宗、文瀾、文津の七閣にあつたのであるが、
この中杭川の文瀾閣は過半焼失したので今この図書館で100人程の写字生が筆写補修中であり、
楊州大観堂の文滙、鎭江金山寺の文宗の二つはいずれも江楊の亂に失われ、
圓明園内にあった文源閣は仏軍に焼かれて、
のこる所避暑山莊のの文津と清室にある文淵と奉天の文溯の三つであるが、
図書館のはその文津閣本で、各巻に「避暑山莊」、「文津閣寶」、「太上皇帝之寶」と大きな三の方印が押してある。
けだし天下の至宝、もと古物陳列所あつたのを民国四年10月から本館に預かっている。
四庫6144函36275冊、
四部各一色に分ち緑は経、紅は史、藍は子、灰は集部で
本の大さは各部同大、紙質尤も美はしい、
毎半ページ8行21字、極めて美はしく書いてある。
経部20架、史部33架、子部22架、集部28架、共計103架、
凾も丈夫であれば棚も強い、
一室内に整然として排置されてある有様、まことに厳肅な感に打たれる。
我等の如く平素史部でも二十四史の石印本をさえ容易に手に入れかねるものは、
ただ茫然としてこの架凾を見るに止まる。

やがて本館珍蔵本室に入って宋版の資治通鑑寰宇通志の類を見せて貰う。
輿図の類は無いかと聞くと、博物館に移したとの答である。
やがてここを辞し荷塘湖畔の会賢堂に至って中食をとる。
立派な料理屋で松浦君が奢ってくれた。
それから午門内の博物館に行く、係官がいないので人れない。
遺憾ながら帰る。
午後四時琉璃廠に行く。
新式の市街で外城内第一の繁華な所である。
多くの書店の中で来薰閣書荘というちっぽけな本屋が、
我等に掛値をいわないので安心して2、3購求してかえる。

本日京大文学部出身の加地哲定氏の来訪をうける。
氏は高野山からの留学生であるが、
この頃支那に密敎研究の居士が多いので、
加地君の敎をうくるものが大官の中にもあるとの事で、
よほど余裕のある生活をしていられるらしい。
いろいろ歓談。
明日は中秋節で、つぎは日曜にあたる。
博物館はそのさきでないと行いないが、僕からも係の人に頼んでやろうといわれる。


~>゜)~<蛇足>~~
 京師図書館は、今でいうところの北京図書館です。

~>゜)~<蛇足2>~~
 1924年の中秋の節句は9月13日でした。

~>゜)~<蛇足3>~~
 文中の京師図書館の写真は、百度百科の京师图书馆から

西湖より包頭まで 7  北京滞在 -01 中央公園

まず国際観光局に立ち寄って直隷山東視察の意向をのべて、汽車利用の方法を相談する。
日程をこさえてやろうといわれる。
辞して崇文飯店に入って中食をとる。
やがて崇文門上に登って城壁のから北京の大観をする。
森の都、瓦の都、なつかしい眺望である。

帰宿して順天時報社に行って松浦君を訪ねる。
元気で仕事をやっている。英国の西藏に於ける活動を研究しているとの事。
相共に車で中央公園に走る。
入園料十毛をとつて一般の苦力を制限して入れない。
從ってこの公園は京師縉紳の出入に限られ、老柏のしげった幽邃の趣が保有されている。

熱閙の市街の中にしてこの勝地があるのがうれしい。
木蔭の籐椅子に腰をかけ悠々茶を喫し、西瓜豆をかじる紳士の多いのを見る。

支那では公園というものは極めて静的なもので決して動的でない。
中央公園特にしかりで、午後5時以後は多くの北京の令嬢達がここにやってきて凉を納れるので、賑かでもあり美はしくもある。
社稷壇から通俗図書館を一巡し、懐来飯店の中庭に来てサイダーをとる。
子女の怜悧で、肌のきめの細いことなど談じていると、
白毫赤帽赤衣の軍楽隊が、列をなして奏楽してくる。
これはと見ると燦爛たる花馬車がこの店先につく。
花嫁が乗っているのだ。
見れば懐来楼上縉紳の集るすでに多い。二十歳前後の淑女も多くきている。
けだし花嫁の披露をやるのだ。
薄いベールをかけて盛装した美人が、馬車から出て楼に入ると、
あらゆる人間の視線は、王を迎うるか如くに輝いてくる。
遠来の孤客には大なる眼福とでもいうべきであろう。
松浦君は「およそかくのごときは近世支那新人の洋化せらる風習で、前代未聞のことだ」という。
よく見ると洋装の夫婦連れで、子供をつれて来ている若人が多い。
これも民国近来の現象であるとの事だ。
忠厚伝家を理想とした昔のつつましやかな時代は過ぎ去ったのかもしれぬ。


~>゜)~<蛇足>~~
 中央公園は、今の中山公園、
 かつての社稷壇(土地の神(社)と五穀の神(稷)を祀る場所)です。

~>゜)~<蛇足2>~~
 文中の古柏の写真は、百度百科の中山公園から


重陽は九月九日のことです。
九は『易経』の中で陰陽の陽の数になっているので
九が重なる日なので、重陽といいます。

この節句の別名は
登高節、晒秋節、敬老節などといいます。

その由来は
・登高節
 岡や高い建物に登る習慣があります。
 秋の行楽という感じでしょうか。

・晒秋節
 晒秋し収穫した農作物を日乾にすることを指し、
 収穫祭のような意味合いがあります。

・敬老節
 重九=重久に通じ、生命長命、健康長寿を意味することから
 敬老の日ともされてきたそうです。


この日を詠んだ唐詩宋詩(日本でいうところの漢詩)は多々ありますが、
高いところに登ってお酒を飲んでいる場面がほとんどです。
この日のお酒は菊花酒でしょうか...

「九月九日憶山東兄弟」王維


独在異郷為異客 毎逢佳節倍思親
遥知兄弟登高処 遍挿茱萸少一人

独り異郷に在りて異客と為る
佳節に逢う毎に倍親を思う
遥かに知る兄弟高きに登る処
遍く茱萸を挿して一人を少くを
 

重陽の画像「重阳赏菊、饮酒、对弈」は百度百科から
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