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燕京雑考@ブログ版
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なぜ耶律楚材の墓は頤和園にあるのか

 頤和園内に耶律楚材の墓があることを不思議に思う人は少ないかもしれません。頤和園内にあることからなんとなく勘違いをして、耶律楚材が満州族だと思い込んでしまう人もいるとおもいます。耶律楚材とは、そしてなぜ彼の墓が頤和園にあるのかを探ってみましょう。

 「先有潭拓寺、后有北京城」という有名な言葉がありますが、「先有楚材祠、后有清漪園」頤和園より先に耶律楚材の墓があったということば残っています。

 はてさて、乾隆帝がこの地に頤和園の元となる清漪園(せいいえん)を造らせているときにその土地に墳墓が見つかったといいます。その墓に葬られた人とは。

 耶律楚材は元の有名な宰相でした。彼は契丹人で遼王族の血を引いていて金の官僚の家に生まれました。そういうバックグラウンドもあって耶律楚材は金に出仕しましたが、その後チンギス=ハンに降って政治顧問となり、オゴタイ=ハンにも仕え、元の基礎を築き上げました。元では税制を整え帝国の経済的基礎を確立させたり、中国の土地の草地化をやめさせたりなど元にかなり貢献しましたが、オゴタイの死、権力を握った皇后の寵臣をいさめたことから左遷され、その後亡くまりました。

 彼の政治姿勢は朝廷内外の評判が高く、彼が亡くなったときには士大夫から庶民まで多くの人が嘆き悲しみ、市も立たず、一切の娯楽が数日間行われなかったといいます。これを見た元の王朝は彼を丁重に葬ることにしました。そして北京の西に祠を建て彼を祭りました。しかし明の時代になるとモンゴル人に対する不満が一挙に噴出、耶律楚材の墓までもがその対象になりました。祠は取り壊され、彼を守る石像は目から光を放つなどと人々から恐れられ水の中に沈められたといいます。

 時は流れ、乾隆帝の時代になってこの地に庭園が造られることになりました。造成中に墓地が発見され、歴史的な資料からここが耶律楚材の墓であることがわかり、乾隆帝は丁重に祭ることにしたといいます。皇室の庭園に祠があることは忌み嫌われるのですが、この祠の西に塀を作り、清漪園と隔てさせたといいます。のちに、頤和園の一角として開放され現在に至っています。

 ちなみに清の時代には発見されなかった目から光を放ったといわれる石像は1979年に発見されたそうです。



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